戦国時代勢力図と各大名の動向ブログ

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康など戦国武将の年表と勢力地図まとめ

1584年 小牧・長久手の戦い

戦国時代1584年の勢力図
更新日 2017/8/9
<豊臣家>

1584(天正12)年1月3日、大坂城内の山里の茶屋で秀吉、千利休(宗易)、津田宗及が茶会を催す。【宗及他会記】

1584年1月、秀吉が毛利と中国国分を進める。毛利輝元へ書状を送り、国境線を妥協しなければ諸城を攻撃する、備中高松合戦時の5カ国割譲に戻すと伝える。

1584年、秀吉が比叡山延暦寺の再建を許可。

1584年3月6日、織田信雄が秀吉に内通した疑いで三名の家老を処刑、秀吉と断交する。信雄は家康に援軍を求め、家康は浜松城から出陣する。

「彼(織田信雄)の御殿の武士の中に羽柴殿に人質を出していた者が3名おり、彼らが叛旗に賛同しないことを恐れた信長の子は、日本の習慣に従って、彼らのため立派な饗宴を設け、歓楽の極みに至った時、3名の首を斬らせた。」【1584年フロイス書簡】

秀吉は信雄の居城 長島城攻略のため出陣、伊勢の諸城を攻撃する。

「各地から軍隊が即座に集結したので伊勢国に着く頃にはすでに7万の兵を率いていた。彼(秀吉)は同国に入るとただちに敵の諸城を囲んで落とし、全土を押さえ、長島と称する一城のみとなった。次の伊賀国においてはただちに降伏したので困難はなく、即座に尾張国へ向かったところ、犬山城がすぐさま降伏した。」【1584年フロイス書簡】(要約)

小牧・長久手の戦い

<軍の編成>
・羽柴軍
羽柴秀吉(20,000)池田恒興、池田元助(6,000)森長可(3,000)堀秀政(3,000)羽柴秀次(8,000)筒井順慶
・徳川軍
徳川家康、井伊直政、酒井忠次(6,500)織田信雄(3,000)水野忠重、榊原康政(4,500)

<各隊の侵攻ルート>
※地図はOpenStreetMapを利用
※地形は正保四年、元禄十四年の尾張国絵図を基に作成

3月13日、大垣城の池田恒興が秀吉につき、手薄となっていた織田領の犬山城を攻撃、占領する。(犬山城主の中川定成は伊勢 亀山方面からの秀吉軍侵攻に備え、伊勢 峯城に移っていた)

1584年3月13日、徳川軍(20,000)が清須城に到着。

3月15日、家康は清須城から小牧山城へ移動。
3月16日、東美濃を支配下に置いていた森長可(池田恒興の娘婿、森蘭丸の兄)が秀吉方につき、美濃金山城から出陣。羽黒八幡林に陣を構える。

3月17日、森長可の動きを察知した徳川軍(酒井忠次、榊原康政)が未明に攻撃。森長可は敗走する。

3月18日、家康は小牧山城を改修、本陣とする。周囲に砦を築く。

3月21日、家康と織田信雄が紀伊の根来衆へ挙兵を要請する。
「この度羽柴のほしいままの行いについて、成敗を加えるため、西国・北国と談合して出陣します。同意されるなら、一日も早く、湯川氏を始めその方案内者を出し、早々に和泉・河内方面へ出陣するように相談をお願いします。」【譜牒余録】

和泉方面の戦い

1584年3月、家康の激に応じた紀伊の根来衆(ねごろしゅう)と雑賀衆(さいがしゅう)の兵15,000が大坂を攻撃するため侵攻。

「大坂にいた人々は、この有り様では市は全滅してしまうと思えたので、家財や衣服を搬出し、火の手が迫った家屋を放棄した。市内外の街路には盗賊が充満しており、物を携えて歩行する者はただちに襲われ略奪される外はなかった。」【フロイス日本史】

岸和田城主の中村一氏が出撃して根来・雑賀衆を攻撃、勝利する。秀吉は援軍に黒田長政、蜂須賀家政を送り、また海上から小西行長が上陸して攻撃。根来・雑賀衆を退却させる。

しかしこの後も根来・雑賀衆が和泉で蜂起する。

3月28日、秀吉が楽田城に到着、本陣とする。家康と対峙。周囲に砦を築く。

4月4日、池田恒興が別動隊で三河 岡崎城を攻撃することを提案、秀吉が了承する。
4月6日、池田恒興(6,000)、森長可(3,000)、堀秀政(3,000)、羽柴秀次(8,000)が出陣。

「羽柴は尾張国に隣接する三河国に軍隊の一部を侵入させることを望み、幾つかの城の守将たちに降伏するように勧めた。
彼ら(城の守将ら)が三河の国主(家康)に知らせたところ、国主は偽って降伏することを命じたが、これにより羽柴の軍隊がいっそう安心して彼の領国深く入った後、彼が兵を出して両方から羽柴軍を挟み撃ちにしてこれを破るためであった。
羽柴は多数の金銀を賄賂として彼らに贈り、彼らから城を明け渡す約束を得たのでこれを信じ、武将数人を14,000か15,000の兵と共に派遣した。」【1584年フロイス書簡】

家康は篠木の住民から秀吉軍出陣の知らせを受け、小牧山城に兵を残し小幡城へ移動を決定。
4月8日夜、小幡城に先鋒隊の水野忠重、榊原康政らが到着。その後家康も到着する。

小牧・長久手の戦い 侵攻ルート

4月9日夜明け、徳川軍は二手に分かれて出撃。水野忠重らが白山林で休息中の秀次隊を攻撃、秀次隊は壊滅する。

同じ頃、池田恒興が岩崎城を攻撃、占領する。

白山林へ救援に戻った堀秀政が榊原康政に勝利。しかし堀秀政は徳川軍が追撃していたことを知り、北へ退却する。
岩崎城の池田恒興、森長可も徳川軍の急襲を知り、撤退を開始。

撤退中の池田・森隊が家康本隊と長久手で対峙。池田恒興(2,000)、池田元助・輝政(4,000)、森長可(3,000)が陣を構える。

徳川家康(3,300)、井伊直政(3,000)、織田信雄(3,000)、水野忠重ら(2,500)が長久手で陣を構える。

4月9日10時、開戦。

4月9日12時、秀吉のもとに白林山での敗戦の報せが届き、秀吉本隊が出陣する。

4月9日14時、長久手の合戦で徳川軍が勝利する。森長可は狙撃され戦死、池田恒興、元助は討死。池田・森隊は壊滅する。

徳川軍は小幡城を経由して小牧山城へ帰還する。

4月10日、家康が和泉の本願寺顕如へ書状を送り、信雄の上洛後は本願寺の大坂復帰と加賀の安堵を伝える。
「この度信雄を御上洛遂げられれば、同意の上、大坂の事は先例のように進め置きます。殊に加賀の事は信長のときと同じようにします。」【東本願寺文書】

秀吉は長久手付近まで移動するも間に合わず、小牧山城を包囲する。

「三河の国主はこの勝利を得ると己れの城に退いたが、羽柴はただちに20,000の兵をもってこれを囲み、城の周囲に高い土壁と深い堀を作らせた。」【1584年フロイス書簡】

<尾張周辺の城 位置関係>
尾張国の城 位置関係

尾張・北伊勢方面の戦い

1584年4月8日、羽柴秀長、筒井順慶らが伊勢の松ヶ島城を占領。

5月1日、秀吉本隊が尾張方面へ侵攻。

5月4日、秀吉軍が加賀野井城を攻撃、竹ヶ鼻城を水攻めにする。

「周囲に非常に高く幅のある塁壁を築いた。聞くところによればこの塁壁は長さ3里(約12km)に及び、一方から、人力によって自然の水路から引いた、流れの急な川を内に注がせた。水は次第に周囲の土地を覆ってすでに城内にも流れ込み、籠城者はこれにたいそう恐れをなした。」【1584年フロイス書簡】

5月24日、竹ヶ鼻城主の不破広綱からの援軍要請を受け、家康が返書を送る。
「その城堅固に守られていて満足です。後詰は少しの油断もなく、関東の軍勢が向かいます。凶徒の敗北は程なくあるでしょう。この時ことごとくこれを討ち果たします。」【不破文書】

竹ヶ鼻城主の不破広綱は織田信雄へ降伏することを伝え、6月3日、織田信雄が返書を送る。
「そちらの城が水に浸かっていることについて、城を渡す旨、聞き届けました。仕方がないことと思います。このように早くに落とされるとは思いの外でした。この上は方法がないので、全て一人も残らず召し連れこちらへ来られますように。」

6月10日、竹ヶ鼻城が降伏、開城する。

6月12日、小牧山城に酒井忠次を置き、家康が清須城へ入る。

6月16日、滝川一益と九鬼嘉隆が蟹江城、下市場城、前田城を占領する。

6月18日、織田信雄と徳川家康が救援に駆けつけ、蟹江城、下市場城、前田城を包囲。

6月19日に下市場城、23日に前田城、7月3日に蟹江城が開城する。織田・徳川勢の勝利となる。

秀吉は西方面から主力部隊で攻撃する予定だったが、間に合わず。

6月28日、秀吉が大坂城へ帰還する。(秀吉の留守を突いた根来・雑賀衆が堺を攻撃していたため、対応にあたる必要があった)

7月5日、家康が伊勢へ侵攻、13日に清須城へ戻る。

7月9日、秀吉が近江坂本へ進軍、18日、岐阜城へ入る。29日、秀吉が大坂へ撤退する。

8月8日、家康が土佐 長宗我部元親の弟 親泰に返書を送り、長宗我部軍も畿内へ侵攻することを要請し、北条の援軍が出ることを伝える。
「讃岐方面の敵(十河存保)の城、いずれも攻め落とし、一城(十河城)になっているとのこと。比類なき働きです。その地を落とした上、淡路へ渡航するよう専念してください。こちらの様子は変わらず懇説できない状況です。また、当秋には関東の軍勢が出陣します。」【香宗我部家伝証文】

(十河城は6月11日に落城し、その報せは8月19日に家康・織田信雄へ届く。【織田信雄書状】)

8月16日、秀吉が再度美濃へ進軍、27日に楽田へ入る。
家康は清須から岩倉へ移動、対陣が続く。

9月2日、秀吉と織田信雄が和睦交渉を開始するが9月7日に決裂。17日、秀吉が大坂へ撤退する。

北陸方面の戦い

越中の佐々成政が織田・徳川方につき、加賀の前田領へ侵攻。9月9日、末森城を攻撃する(末森城の戦い)。
前田利家は金沢城から援軍に向かい佐々成政を攻撃。11日、佐々成政は敗れ退却する。

飛騨国では佐々成政と協力関係にあった姉小路氏も織田・徳川方につく。

10月17日、家康が尾張から浜松へ撤退する。

10月下旬、秀吉が伊勢へ進軍。11月9日、家康も出陣、清須城へ入る。

11月11日、信雄が領土安堵を条件に単独で秀吉と和睦する。以降信雄は秀吉に従う。大義名分がなくなった家康も講和に応じ、戦いが終結する。
この時、和睦の条件として家康次男の秀康(11歳 幼名 於義伊)が秀吉の養子となる。

1584年4月17、蒲生賢秀が死去(51歳)。小牧長久手の戦いの後、三男氏郷(29歳)が近江日野から伊勢松ヶ島へ転封(加増)される。

1584年8月11日、大和国で筒井順慶が病死(36歳)。定次(23歳)が家督を継ぐ。

1584年9月23日、秀吉は秀次(16歳)に、小牧長久手の戦いにおいての訓戒状を送る。日頃から秀吉の甥として態度がよくないこと、一人前と呼ばれるようになれば引き立ててやること。家来2人を討死させたのに責任を感じていない。恥の上塗りにならないよう今後は分別をよくすべき、と伝える。

1584年11月、秀吉が従三位権大納言に叙任される。

<徳川家>

1584(天正12)年、織田信雄を担いで羽柴秀吉と対立。小牧・長久手の戦いで秀吉軍に勝利する。

1584年11月11日、信雄が領土安堵を条件に単独で秀吉と和睦。これにより家康も浜松城へ戻り、秀吉との講和を受諾する。
この時、和睦の条件として次男の於義丸(後の結城秀康 11歳)を秀吉の養子に入れ、於義丸は羽柴秀康と名乗る。徳川家の後継ぎは三男秀忠となる。

11月23日頃、佐々成政が家康に再起を促すため直談判に出発。厳寒期に越中から浜松まで移動(さらさら越え)。12月25日に浜松へ到着、家康を説得するも失敗に終わる。

<北条家>

1584(天正12)年5~8月、沼尻の合戦。由良・長尾・佐野氏が上野 小泉城を攻撃したため、北条軍は下野 足利城や佐野領へ侵攻。一方、同時期に佐竹義重と宇都宮国綱連合軍が小山城を攻撃。
両軍が接近したため、5月、沼尻にて対峙。
1584年7月22日、大きな決戦には至らず、双方が講和に応じて撤退。

<上杉家>

1584(天正12)年、上杉家は秀吉方についたため、北信濃では家康方の小笠原貞慶から攻撃を受ける。

1584年5月以降、景勝が新発田重家討伐を行う。
1584年6月頃、景勝が秀吉の人質要求に応じ、上条宜順の孫を送る。

1584年8月、景勝が八幡の合戦で新発田軍に勝利。

1584年、狩野秀治が死去。以降、内政・外交は直江兼続が一人で担当する。

<伊達家>

1584(天正12)年、伊達輝宗が相馬領 金山城・丸森城を攻撃、占領。
1584年5月、田村・岩城・佐竹氏の仲介で相馬氏と同盟を結ぶ。(86年に再び対立)
1584年10月、輝宗が隠居、政宗が家督を引継ぐ。

<最上家>

1584(天正12)年、最上義光が天童氏ら対抗する国衆を制圧し、最上・村山郡を支配下に置く。

<真田家>

1584(天正12)年1月、昌幸が小県郡の丸子城(城主 丸子三左衛門)を攻撃、占領。

1584年7月、真田配下となった室賀正武は家康の命令を受け、昌幸の暗殺を企て上田城を訪れる。昌幸は計画を察知し、室賀正武を斬殺する。【加沢記】

1584年7月、祢津昌綱が真田に降る。これにより小県郡の大半を支配下に置く。

<毛利家>

1584(天正12)年、備中高松城の戦い以降、2年間続いた秀吉との中国国分により毛利領が決定。当初秀吉は備中の高梁川東を羽柴領、高梁川西を毛利領と提案するが、毛利の主張に秀吉が譲歩。 備中 松山城、伯耆 八橋城を毛利領、備中 高松城を秀吉領とすることで決着。
※参考文献:『毛利輝元:西国の儀任せ置かるの由候』光成 準治(著) ミネルヴァ書房

1584年1月、毛利派である伊予の河野氏が長宗我部方と争ったことから、長宗我部との同盟は解消となる。

<宇喜多家>

1584(天正12)年、小牧・長久手の戦いで宇喜多秀家は大坂の守備につく。

1584年、秀吉と毛利との中国国分により宇喜多領が決定。備前・美作・播磨の佐用郡、赤穂郡、また備中高松が宇喜多領となる。※赤穂郡は1586年のみ生駒親正が入る。
参考文献:『宇喜多直家・秀家―西国進発の魁とならん』渡邊 大門(著) ミネルヴァ書房

<長宗我部家>

1584(天正12)年1月、毛利派の伊予 河野氏らと対立。毛利輝元は河野・西園寺氏へ援軍を出し、これにより毛利との同盟は解消となる。

徳川家康から反秀吉勢として雑賀衆とともに参戦するよう要請を受ける。

1584年6月11日、攻撃が続いていた十河城を落城させる。(第二次十河城の戦い)
その後、秀吉と織田信雄の間で停戦となる。

12月、伊予の湯築城(城主 河野通直)を攻撃。西園寺氏ら南伊予の国衆を攻撃する。

信孝・家康が秀吉と講和したことで元親は同盟国を失い、秀吉との交渉を始める。

<龍造寺家>

1584(天正12)年2月、龍造寺軍が肥後へ侵攻、合志氏を攻撃する。

1584年3月中旬、島津義久・義弘・歳久が出陣。
島津家久は豊久、川上久隅・新納忠元・鎌田政近・山田有信・赤星統家(兵数4,000)で先に島原半島へ進軍。有馬氏がおさえる安徳城へ入る。

沖田畷の戦い
1584(天正12)年3月18日、龍造寺隆信・後藤家信・多久信鎮・江上家種・鍋島直茂(兵数25,000)が須古城から出陣。
龍王崎から海路で進軍、20日に神代へ着陣する。

島原城へ兵糧を海上から送ろうとするが、島津・有馬軍に封鎖されて失敗する。

有馬・島津軍(兵数5,000)が進軍、森岳城(島原城)周囲に陣を構える。
龍造寺隆信も森岳城北側に軍を3隊に分けて布陣する。

3月24日午前、龍造寺軍と有馬・島津軍が交戦。
初戦は攻撃をかけた龍造寺軍が優勢となるが、島津軍は地の利を生かして応戦する。島津・有馬軍は海上から大砲2門による砲撃で龍造寺軍に損害を与える。

突撃した島津軍の川上忠堅が龍造寺隆信の本陣へたどり着き、龍造寺隆信を討ち取る。

島津軍の勝利となり、島津軍は三会城まで追撃を行い、2,000の兵を討ち取る。

【フロイス日本史】の沖田畷の戦いを開く

1584年、沖田畷の戦い敗戦後、大友軍が侵攻、猫尾城、高牟礼城、山下城を占領される。

<大友家>

1584(天正12)年、沖田畷の戦い後、田原親家・立花道雪(戸次鑑連)・高橋紹運が弱体化した龍造寺領の筑前へ侵攻。
犬尾城、高牟礼城、猫尾城を落城させる。柳川城は攻略できず撤退。蒲池氏の山下城、谷川城、田尻鑑種の鷹尾城などを降伏させる。

道雪不在の立花山城を秋月種実が8,000の兵で攻撃するが、立花宗茂が1,000の兵で防戦する。

立花道雪・高橋紹運は島津家へ共同で龍造寺を攻撃する提案をするが、島津家からは龍造寺と和平になったこと、大友軍が筑後に駐留する場合は敵対行為とみなすと伝えられる。

<有馬家>

1584(天正12)年3月24日、沖田畷の戦いで龍造寺隆信を討ち取り勝利。

1584年、沖田畷の戦いでイエズス会から大砲が提供されたため、有馬晴信が浦上の地をイエズス会へ寄進する。

<島津家>

1584(天正12)年1月、島津義久は再び有馬領の支援を決定。陣触れを発令し、義久が出陣することを伝える。

1584年2月、龍造寺軍が肥後へ侵攻、合志氏を攻撃する。

1584年3月中旬、義久・義弘・歳久が出陣。
家久は豊久、川上久隅・新納忠元・鎌田政近・山田有信・赤星統家ら(兵数4,000)で先に島原半島へ進軍。有馬氏がおさえる安徳城へ入る。

1584年3月24日、沖田畷の戦い。 島津・有馬軍が龍造寺軍に勝利。龍造寺隆信を討ち取る。

1584年4月、伊集院忠棟・上井覚兼が島原半島へ侵攻、龍造寺軍が残る神代、井福を攻撃する。
再び秋月種実から龍造寺との和平を提案される。龍造寺隆信は秋月種実を通して降伏を伝える。

1584年5月、島原半島は有馬晴信に任せ、島津軍は撤退する。

1584年9月、肥後出陣が決定。島津義弘・伊集院忠棟・上井覚兼・新納忠元が隈本城へ入る。隈府城の隈部親泰ら肥後北部の国衆が服従を申し出、肥後国中(北部)を平定する。

大友氏から共同で龍造寺を攻撃して欲しいと要請が来るが、和平になったこと、筑後に駐留する場合は敵対行為とみなすことを伝える。

1584年10月、主力が肥後八代まで撤退する。

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