戦国時代勢力図と各大名の動向ブログ

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康など戦国武将の年表と勢力地図まとめ

1591年 秀吉の天下統一

戦国時代1591年の勢力図
更新日 2018/8/21
<豊臣家>

1591(天正19)年1月、秀吉が昨年訪日したヴァリニャーノら使節団との面会を許可する。
秀吉は面会を拒んでいたが、増田長盛が追放令についての嘆願ではなくただの面会と伝え、上洛を許可する。【フロイス日本史】

1591年1月22日、秀吉の弟、豊臣秀長が大和郡山城で病死(52歳)。養子である秀保が継ぐ。

1591年閏1月、鶴松が発病するが回復する。

秀吉が京の都市整備を行う。町の各地に点在する寺院を鴨川西岸に移動させる。大坂の本願寺も京の南部へ移転させる。
1591年閏1月、秀吉が京の周囲を土塁と堀で囲む御土居(全長22km、土塁基底部は約20m・堀幅は10m前後)の建築を命じる。4ヶ月後までに完成する。

「この都の町は諸国から移住する人々に伴い、建物は数を増し、その変貌ぶりは以前にこの町を見た者でなければ信じられないほどであった。」
「この町の人口は8千ないし1万だったが、今では戸数3万を超え拡大している。しかもその数は市民だけで、内裏の貴族や関白の城と宮殿を除いてのことである。」
「町には古くから300余りの寺院・僧院があり、関白は町の中心にあった寺院をことごとく取り壊し、城壁に近いところで再建した。」【フロイス日本史】

秀吉が使節団と面会
(【完訳フロイス日本史5】に基づく経過)

1591(天正19)年閏1月8日(西暦1591年3月3日)、インド副王の使節団(ヴァリニャーノら司祭や修道士、天正遣欧使節団の4名)約30名が聚楽第で秀吉に謁見する。

インド副王からの信書には秀吉の業績を讃え、日本の宣教師への慈愛をお願いする内容が書かれていた。(信書の作成は1587年で伴天連追放令の情報は伝わっていない時期)

謁見では秀吉は豪華にもてなし、長時間の歓談や天正遣欧使節団による西洋楽器の演奏を聴く。司祭らは秀吉の満足した様子に安心していたが、面会が終わると秀吉はインド副王へ伴天連を非難する返書をしたためる。
「我が国は神国である。汝らは神仏を敬わず邪法を唱えて正しい法を破ろうとする。今後はでたらめな乱説を禁止する。伴天連は再び道俗男女を邪道に導こうとしている。よって宗派を問わず族滅する。」
ヴァリニャーノがこの内容を読み、これでは貿易や友好継続に影響が出るので文章を和らげてほしいと前田玄以に修正してもらうよう嘆願する。

秀吉はこの使節団を偽物と疑い、再度修道士2名と面会する。
一部のキリシタン諸侯が信仰熱から家臣を無理やりキリシタンにする行為があったため伴天連追放に至ったこと、日本でもインドのように自ら進んで帰依したい者だけが教えを奉ずるべきと伝える。

秀吉はインド副王への返書の修正に納得し、再び作成する(文面は和らぐが内容は以前の伴天連追放令と変わっていない)。
「日本には神々の道が堅固にあるから他の教えを新たに臨む必要はない。民の心を変えるのは有害であり、よって布教のために来てはならないと追放令を出した。貿易は望んでいるので海賊を掃討し安全を確保する。」

秀吉はスペイン・ポルトガルとの貿易には宣教師の仲介が必要と判断、長崎に10名の宣教師滞在を許可する。(伴天連追放令後も宣教師の滞在を黙認していたがこれにより正式に認めた)

1591年1月、葛西大崎一揆を扇動したとの疑いで伊達政宗へ上洛命令が届き、上方へ向かう。
閏1月27日、伊達政宗が清須城で秀吉に謁見する。一揆扇動についての書は偽造であると説明する。

1591年2月4日、伊達政宗が上洛。(5月に米沢へ帰国と一揆征伐を命じられる。)
この頃石田三成も帰京する。

1591年2月26日、長谷川忠実が都で書かれていた落首を書き写す。
「末世とは 別にはあらじ 木の下の さる関白を 見るにつけても」
「おしつけて 結えば結わるる 十らく(聚楽)の 都の内は 一らくもなし」【猪熊文書】

1591年2月28日、千利休が切腹。(秀吉が切腹を命じた理由として、利休が茶器の売買で不正に利益を得た、また大徳寺山門上に利休自身の木像を安置し下を通る秀吉を見下した、などが原因と言われている)

1591年2月、秀吉から常陸平定を認められた佐竹義宣が、常陸南部の南方三十三館の領主と嫡男を呼び出して全員を殺害する。これにより常陸国を平定する。

1591年2月、秀吉が氏直の赦免を通知。後に大坂に屋敷を与える。

1591年3月、九戸政実の乱。南部氏の家臣 九戸政実が南部信直に謀反を起こす。相続争いで対立していた南部信直が奥羽仕置により大名として認められ、九戸政実ら家臣の諸城を破却、妻子を南部信直の三戸城へ提出を求められたことに反発、挙兵した。

1591年3月、秀吉が朝鮮出兵についての軍役令を出す。軍役人数は、九州大名は石高1万石あたり4~500人、中国・四国大名は1万石あたり400人、以東は1万石あたり300人とした。また海に接する国は10万石あたり大船2隻を指示した。

1591年4月20日、茶人 津田宗及が死去。

1591年6月20日、秀吉は葛西大崎一揆と九戸政実の乱を鎮圧するため再び仕置軍を侵攻させる。豊臣秀次を総大将に徳川家康、上杉景勝、前田利家、石田三成、大谷吉継ら(60,000)が出陣。蒲生氏郷、浅野長吉(長政)と合流する。

1591年7月、伊達政宗・蒲生氏郷が葛西大崎一揆を鎮圧。一揆発生の責任として木村吉清を改易処分とする。

1591年8月、秀吉が氏直を正式に赦免し、河内と下野に領地を与える。

1591年8月2日、鶴松が病にかかり容態が悪化する。
1591年8月5日、鶴松が病死(3歳)。

1591年9月4日、九戸城を仕置軍が攻撃、九戸政実が降伏する。九戸政実を処刑、城内にいた反乱軍や住民も全て殺害する。
これにより秀吉の天下統一が完成する。(事実上の天下統一は北条氏を降した1590年)

1591年9月、秀吉が伊達政宗を減転封処分とする。米沢、伊達氏の旧領である信夫郡・伊達郡・刈田郡・長井郡を没収、葛西大崎領の十二郡を与える。(米沢城72万石から玉造郡岩手沢城58万石となる)
蒲生氏郷は旧伊達領の七郡を与えられ、黒川城主となる。(その後城を改修、若松城と改める。)

1591年9月、秀吉が洛中に地子銭永代免除令を出す。(これにより朝廷や貴族が住民から地子銭を徴収できなくなり領主権を失った。)

1591年9月、対馬の宗義智が朝鮮へ渡り大陸侵攻について警告を出す。

1591年9月8日、太田資正が死去(70歳)。

1591年9月15日、秀吉がフィリピン(スペインが1571年に征服)へ服属要求の書簡を送る。マニラのイエズス会は突然の降伏要求だったため協議、日本にいる司祭へ害が及ばないよう使節を派遣することを決める。翌年、フィリピンから使節が名護屋を訪れる。

1591年9月23日、徳川家康が旧葛西大崎領の検地を完了し、伊達政宗が転封地へ入る。

1591年10月14日、浅間山の噴火が観測される。「夜五ツ時分、信濃浅間山大やけ候て、はい無際限ふり候てこし候、地震のことくいへゆるき」【家忠日記】

1591年10月、朝鮮出兵に備え、肥前国に拠点となる名護屋城の築城を開始。浅野長吉(長政)を総奉行、黒田官兵衛を縄張り(設計)とし九州の諸大名が加わった。
また壱岐、対馬にも渡航のための築城を命じる。

「秀吉は次のように述べた、"シナを征服すること以外に予が為すべき仕事は残されていない。仮に征服し終えないで倒れることがあろうとも予の名はつねに残り、不滅の栄誉をもって永遠に記念されるだろう"」【フロイス日本史】

「(関白殿は)非常に信頼を厚くしていた諸侯4名(小西行長・黒田長政・加藤清正・毛利勝信(森吉成。毛利勝永の父))を指名し、彼らよりも有力な諸侯がいたにも関わらず、彼らを新王国の主君にすることを望んだので、皆の者は大いに驚いた。」

「次のような噂がしきりに流れた。すなわち関白殿のこの計画は結局は不幸な結果に終わるであろう。この事業は強制されたものであり、日本中に多くの反乱の温床をつくることとなろう、と。なぜなら今回の戦争を嫌がらぬ者は誰もいないからである。全諸侯は、誰かがいつかは反乱ののろしをあげてくれるだろうと期待していたが、誰も先頭に立って名乗り出る者は現れなかった。」【1591、1592年度年報】

1591年11月4日、北条氏直が大坂で死去(30歳)。

1591年11月、秀吉は秀次(24歳)(秀吉の姉 日秀尼(にっしゅうに)の長男)に関白職を譲渡する。これにより秀吉は太閤(関白を譲渡した職)となる。
秀次は聚楽第を住居として内政を行う。

<伊達家>
1591(天正19)年9月、秀吉が伊達政宗を減転封処分とする。米沢、伊達氏の旧領である信夫郡・伊達郡・刈田郡・長井郡を没収、葛西大崎領の十二郡を与える。(米沢城72万石から玉造郡岩手沢城58万石となる)

<毛利家>
1591(天正19)年、秀吉の指示で吉川広家が月山富田城へ入り、出雲3郡・伯耆3郡・安芸1郡・隠岐一国の14万石を所領する。

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