戦国時代勢力図と各大名の動向ブログ

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康など戦国武将の年表と勢力地図まとめ

1578年 - 79年 御館の乱 耳川の戦い


更新日 2018/2/12
<織田家>

1578(天正6)年元旦、信長が安土城で茶の湯を催す。
信忠・武井夕庵・林秀貞・滝川一益・細川藤孝・明智光秀・羽柴秀吉・荒木村重・丹羽長秀・長谷川宗仁・市橋長利・長谷川与次が参列する。信長は朝の茶を12名に振る舞う。
各大名に豪華な座敷を用意、「松島」「三日月」などの名物茶道具の披露会を行う。
4日には前年に信忠へ譲った茶道具開きが行われる。
12日、信長が礼参した津田宗及に建築中の安土城内を案内し、黄金1万枚を見せる。
その後13日から尾張・美濃で鷹狩りを行い25日、安土城へ戻る。

1578年1月6日、信長が正二位へ叙任される。

1578年1月11日、明智光秀が津田宗及を招き茶会を催す。光秀は信長から拝領した八角釜を披露する。【宗及他会記】

1578年2月23日、秀吉が播磨へ出陣。

1578年2月下旬、別所長治の謀反。東播磨一帯を治める三木城の別所長治が織田から離反する。宇野氏ら周辺の国衆も離反し、志方城、神吉城、野口城なども毛利・本願寺方につく。(赤松則房(置塩城主)は織田方に留まる)

<周辺位置関係>
近畿地方城マップ拡大

1578年3月23日、信長が上洛、二条新御所へ入る。4月22日に安土へ戻る。

1578年4月4日、織田信忠が信雄・信包・信孝・信澄、滝川一益・明智光秀・蜂屋頼隆、丹羽長秀らを率いて石山本願寺へ侵攻するも、戦闘はなく撤退する。

1578年4月9日、信長が右大臣・右近衛大将の両官を辞任する。(以降信長は前右府(さきのうふ)と呼ばれる)

1578年4月10日、丹波園部城を滝川一益、明智光秀、丹羽長秀が攻撃、占領する。26日京へ帰陣する。

1578年4月、別所長治を支援するため、毛利水軍と雑賀衆が播磨に上陸、織田方の阿閇城を攻撃する。黒田官兵衛が迎え撃ち、勝利する。

1578年4月27日、信長が播磨出陣のため安土へ戻り、再度上洛。

第二次上月城の戦い

1578(天正6)年4月下旬、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景・宇喜多直家(兵数30,000)が山中鹿介ら尼子再興軍が籠もる上月城(城主 尼子勝久)を攻撃。

秀吉・荒木村重(兵数10,000)は一旦三木城攻撃を中断、救援に向かう。高倉山に布陣するも、谷を越えた上月城は毛利軍が堅固な防御線を築き接近できず。

4月29日に滝川一益・明智光秀・丹羽長秀・筒井順慶が出陣。5月1日に美濃や伊勢から織田信忠・信雄・信包・信孝、また細川藤孝、佐久間信盛が出陣、大和郡山へ入る。織田軍は5月初旬に明石付近まで進軍する。

5月13日、信長も播磨へ出陣する予定だったが、畿内では11日より雨が強く降り続き賀茂川・白川・桂川が氾濫、四条大橋も流され京では死者が出る状況だった。淀・鳥羽・槙島の衆たちが数百艇の舟を出し、三条油小路まで櫓櫂船で信長を迎えに参上する。

6月10日、信長が上洛。
6月14日、祇園祭を見物する。馬廻り衆、小姓衆へ「弓、槍、長刀などの武器は持たなくてよい」と命じる。
その後小姓衆10名と鷹狩りを行い、普賢寺で近衛前久と面会、知行1500石を献上する。

6月16日、秀吉が指示を仰ぐため播磨から上洛。信長は長陣を避け上月城への派兵を中止を命じる。三木城の支城を攻撃して三木城包囲に戻るよう指示を出し、信長は21日に安土へ戻る。

6月26日、秀吉は三日月山に明智光秀・滝川一益・丹羽長秀を抑えに置いて退却する。
信忠・信孝・細川藤孝らが神吉城、信雄・丹羽長秀らが志方城を攻撃。7月、神吉城・志方城を攻略する。
その間秀吉は但馬へ進軍、昨年攻略した竹田城に入り、国衆を招集させる。(織田家への忠誠確認と思われる)

7月5日、織田の援軍が引き返した上月城は兵糧が尽き降伏する。城主の尼子勝久は自害。尼子氏が滅亡する。山中鹿介は捕らえられ輝元のもとへ護送中に殺害される。

【信長公記】

1578年5月4日、上月城へ進軍中の明智光秀が源平ゆかりの地である生田の森や須磨、明石を訪れる。連歌の師匠である里村紹巴へ手紙を送り、貴殿もお誘いできればよかったと伝える。【竹内文平氏所蔵文書】

九鬼大船

信長は九鬼嘉隆に大船6隻、滝川一益に大船1隻を建造させる。
1578年6月26日、重装した7隻は大坂沖へ進み、雑賀・阿波の船団と交戦。敵は小舟多数、弓と鉄砲で四方より攻撃を行う。九鬼嘉隆は敵舟を近くに寄せ大砲を一度に撃ち放し、多数沈めた。九鬼水軍は敵舟30隻を乗っ取り勝利する。
(その後11月に毛利水軍と第二次木津川口海戦を戦う)

7月17日、敵舟は寄り付くことができず、九鬼水軍は堺港へ着岸。大船を見た見物人はとても驚いた。翌18日より大坂湾に出て船を停め海上を封鎖、石山本願寺への兵糧補給を防いだ。
【信長公記】

※【信長公記】【九鬼家家譜】には鉄甲船の記載はなく「大船」と書かれている。【安土日記(信長公記異本)】では船の大きさは十八間(長さ32.4m)、六間(幅10.8m)。
※【多聞院日記】には「鉄の船也、鉄砲通らぬ用意」と記載。(「五千人乗る」とあるため伝聞情報と思われる)
※宣教師オルガンティノは「日本中で最も大きく華麗である、王国(ポルトガル)の船に似ている、私は訪れて見てきたが、日本でこれほどの物を造ることに驚いた。…大砲3門、多数の精巧な長銃を備える」と記載。(当時の欧州に鉄甲船は登場していないことから全面鉄張りではなく鉄板などは一部の使用と思われる)

1578年8月、明智光秀の三女 たま(後の細川ガラシャ)が細川忠興に嫁ぐ。(1587年頃から教会に通い、洗礼を受け細川ガラシャと名乗る)
9月、吉田兼見が坂本城を訪問し、光秀が所望した茶碗を贈る。【兼見卿記】

1578年8月15日、信長は相撲取り1500名を安土へ呼び寄せ相撲大会を開く。御奉行として堀秀政・蒲生氏郷・津田信澄・永田刑部少輔ら各将も力自慢の手の者を連れてくる。
信長は永田刑部少輔・阿閉孫五郎が強いと聞き、両人と堀秀政や蒲生氏郷ら諸将に相撲を取らせた。信長は14名の力士に太刀・脇差・御服の褒美を与えた。【信長公記】

1578年9月24日、信長が上洛、二条新御所へ入る。
9月27日、信長が近衛前久・松井夕閑・滝川一益・細川昭元・織田信澄・細川藤孝らと堺へ向かう。
9月30日、堺港で九鬼嘉隆の大船を見物する。九鬼嘉隆に黄金20枚、滝川一益へも褒美を与える。
その後今井宗久邸を訪れ茶会が催される。 
10月1日、二条新御所へ戻る。

1578年9月、明智光秀が丹波侵攻を再開するも、10月に荒木村重の謀反が起き光秀は家臣に八上城(城主 波多野秀治)を任せて摂津へ向かう。八上城は明智軍の包囲が続く。

越後で御館の乱が起きたことで、4月、信長は織田傘下に入っていた神保長住を越中へ送り調略を行い、9月には斎藤利治を飛騨から侵攻させる。
10月4日、月岡野の戦いで斎藤利治が河田長親に勝利、越中の国衆の多くが織田につく。

1578年10月、吉田兼見が勝龍寺城を訪問し、細川藤孝と囲碁と乱舞を楽しむ。【兼見卿記】

1578年10月、秀吉が再び三木城を包囲。(落城は1580年1月)

10月15日、秀吉が三木の付城で初めての茶会を催す。茶頭は津田宗及。

1578年10月17日、荒木村重が本願寺顕如から起請文を受け取る。獲得した領地は義昭や毛利の指示に従うようにと伝えられる。【京都大学所蔵文書】

荒木村重の謀反

1578(天正6)年10月21日、摂津 有岡城の荒木村重が離反、毛利・本願寺方につく。荒木村重家臣の高槻城 高山右近、茨木城 中川清秀も離反する形となる。

信長は荒木村重に確認の手紙を送ると村重は「少しも野心はありません」と返事をするが、その後出仕せず。信長は「この上は是非に及ばず」と言い、出陣する。その後も説得を続けるが応じなかった。
【信長公記】

「信長は高山右近殿に大いに同情を寄せ、自分と和を講じたがっているのに(荒木村重に)人質を拘束されている、と述べた。」【フロイス日本史】

毛利から荒木村重には、正月15日には出馬し小早川・吉川・宇喜多を尼崎へ置き、雑賀と両方から攻めて織田軍を追い払う、との誓紙が届いていた。

1578年10月下旬、黒田官兵衛が説得に有岡城へ向かうが、捕らえられ幽閉される。

1578年11月5日、黒田官兵衛の家臣 母里与三兵衛らが起請文を作成、団結を図る。「この度官兵衛が不意に逗留となった。それぞれの苦しみはこれ以上ない程である。…この衆はただ御本丸に尽力すべきである。」【黒田家文書】

1578年11月、荒木村重に同調した御着城の小寺政職や播磨の国衆も毛利方につく。【粟屋元種宛 小早川隆景書状】

※【黒田家譜】による黒田官兵衛の幽閉
黒田官兵衛の主家である小寺政職が織田から離反しようとしたため、官兵衛が政職を説得すると、政職は荒木村重が謀反を止めるなら毛利の誘いを断ると返答。官兵衛は有岡城へ説得に向かうが、政職は荒木村重に官兵衛を暗殺するよう依頼していた。

<周辺位置関係>

1578(天正6)年11月6日、第ニ次木津川口の戦い。
辰の刻(8~9時頃 ※冬至時刻)、毛利水軍600隻が大坂の木津川口へ侵攻。九鬼嘉隆の大船7隻が毛利水軍に包囲される。
九鬼水軍が不利に見えたが、敵船を寄せつけた後、大将船を狙い6隻の大砲を発射し打ち崩した。敵舟5隻を乗っ取る。毛利水軍はこれに恐れ接近することができなくなる。九鬼水軍は数百隻を追撃、午の刻(11~13時)に勝利する。
【信長公記】【九鬼家家譜】

1578年10月26日、信長が長宗我部弥三郎(元親の嫡男)へ返信を送る。「光秀への書状を確認した、阿波へ出陣しているのは尤もである、今後も忠節を尽くすように。(元親の要望に応じて)「信」の字を遣わすので名を「信親」としなさい。」【土佐国蠧簡集】※年次不明 

1578年11月9日、荒木村重討伐のため信長が山崎へ進軍。
滝川一益・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆らを茨木城へ、織田信忠・信雄・信包・信孝・前田利家・佐々成政らを高槻城へ向かわせる。

信長は高槻城の高山右近がキリシタンのため、宣教師オルガンティーノを高槻城へ派遣する。

高山右近は自分が投降すると荒木村重に息子と妹を殺されること、また投降時の封禄欲しさだと非難されることを恐れ躊躇していた。しかし髪を切り城と従臣を捨てることでこれを回避し、キリシタン宗門の名を向上できると伝え、投降に応じる。
高山右近の父 友照は村重に家族を殺害されることを恐れて投降せず、高槻城を捨て有岡城へ入る。(その後父 友照は織田軍に捕らえられ越前へ追放となる)【フロイス日本史】

1578年11月16日、高山右近が信長のもとへ御礼に参上する。信長は喜び小袖を脱いで与え、名馬も与え、また褒美にと摂津 芥川郡を任せることとした。これにより高槻城主に復帰する。

天正6年11月24日、茨木城を包囲すると中川清秀も降伏に応じて開城する。1578年11月27日、中川清秀が信長のもとへ御礼に参上する。信長は中川清秀に太刀や信雄から名馬を贈る。

信長が西方へ進軍。百姓は無断で山に小屋を建て逃れるが、信長は曲事とし、山へ兵を入れ切り捨てる。信長は兵庫へ進軍、花隈城付近で僧侶・男女の区別なく斬り殺した。【信長公記】

12月8日、信長が荒木村重の有岡城を攻撃開始。しかし先鋒隊の信長側近 万見仙千代が討死する。その後信長は周囲に付城を築き、丹羽長秀・蒲生氏郷・池田恒興・織田信雄らに番手を置き長期戦に備える。
一方秀吉の包囲する三木城へは佐久間信盛・明智光秀・筒井順慶が兵糧・鉄砲の補給を行う。

明智光秀が播磨から引き上げ、丹波へ侵攻。波多野秀治の八上城を包囲する。

12月25日、摂津に軍勢を置き、信長が安土へ帰還する。

12月16日、長宗我部元親が信長へ感謝の書状を送る。「斎藤利三へ申し出たところ御朱印状を下さり、嫡男 弥三郎に「信」の字を拝領し名誉なことです」【石谷屋文書】

1578年、丹後国の一色義道が焼き討ちされた延暦寺の僧を支援し、信長と対立。

1578年頃、播磨の後藤又兵衛が黒田官兵衛に仕える。

1579(天正7)年1月7日、坂本城で明智光秀と津田宗及が茶会を催す。
1月10日、安土城で茶会を催す。【宗及他会記】

1579年2月18日、信長が上洛、二条新御所へ入る。京で鷹狩りを行う。

1579年3月、信忠らが上洛。信長父子は摂津へ出陣するが、各地で鷹狩りを行うのみで荒木村重への攻撃は行わず。
伊丹で小規模な戦闘が起きる。4月末、信忠を美濃へ帰還させる。

1579年4月26日、信長は本陣のある古池田で馬廻衆・小姓衆、近衛前久、細川昭元を連れ野駆けの遊びを行う。

1579年5月1日、信長が京へ戻る。

1579年5月11日、信長が安土城天守閣へ入る
吉日を選び、信長が正式に安土城を居城とする。
「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それらはヨーロッパのもっとも壮大な城に比肩しうるものである。」
「(天守は)層ごとに種々の色分けがなされている。あるものは…黒い漆を塗った窓を配した白壁となっており、それがこの上ない美観を呈している。他のあるものは赤く、あるいは青く塗られており、最上層はすべて金色となっている。」【フロイス日本史】

1579年6月、明智光秀が昨年3月より兵糧攻めをしていた丹波 八上城では4、500人の餓死者が発生、城主の波多野秀治が降伏する。波多野三兄弟は洛中引き回しの後、安土で磔刑となる。

1579年6月22日、秀吉軍の三木城攻略中に竹中半兵衛が病死する(36歳)。

1579年7月、明智光秀が丹波へ侵攻。7月19日、宇津城を攻撃、城主 宇津頼重は逃亡する。
8月に黒井城(昨年赤井直正が病死、赤井忠家が継ぐ)を攻撃し、丹波国を平定する。信長は数々の粉骨の働きは名誉なことで比類もない、と感状を光秀に与えた。

1579年8月、能登の旧畠山家臣 温井景隆・三宅長盛が織田方につき、上杉領の七尾城を攻撃、占領する。

1579年8月16日、佐久間信盛が住吉に津田宗及と山上宗二を招いて茶会を催す。【宗及他会記】

1579年8月20日、信忠が美濃から摂津へ戻る。

有岡城の荒木村重は毛利軍の加勢を待つも一向に現れないため使者を送ると、7月中には出陣すると返事があり、8月には国に問題が起きたため出陣できないと伝えられる。

1579年9月2日、荒木村重が5、6名を連れ密かに城から脱出、尼崎城へ入る。「残された有岡城内の者は力を落とし、この先どうなるのかと行く末を案じた」【信長公記】

1579年9月4日、秀吉が安土へ戻り、宇喜多直家の臣従を認めてもらうよう要望するが、信長は曲事として拒否する。【信長公記】(翌10月に信長が認め、宇喜多家が傘下に入る)

1579年9月11日、信長が上洛。播磨の三木方面で羽柴軍が敵を討ち取った報せが入る。信長は秀吉に三木城を決着がつくまで攻撃するようにと伝える。

北条氏照が上洛、信長へ鷹3羽を献上する。その後信長は10月9日に安土へ戻る。

1579年9月11日、荒木村重が毛利水軍の乃美宗勝へ、撤退した援軍を戻すよう伝える。
「敵は今朝未明にこちら(尼崎城)へ取り寄せ、信忠殿が包囲するため小屋を建てています。こちらは御前衆が六、七百ばかりで無人の状態です、早々に御軍勢を差し返してください」【乃美文書】

1579年9月17日、南伊勢の織田信雄が伊賀国に侵攻、大敗する。信長は上方に出ることを嫌い自国で私戦を起こしたとし、言語道断と叱咤する。【信長公記】

1579年9月、毛利方の羽衣石城主 南条元続(伯耆国)が織田へ離反する。

1579年9~10月、明智光秀と細川藤孝(後の幽斎)が丹後の弓木城(城主 一色義有)を攻撃。丹後国を平定する。細川幽斎が山城から移封となり丹後を統治する。

1579年10月末、信長は宇喜多直家を赦免、織田傘下に入る。秀吉の取次ぎで宇喜多基家が摂津で信忠に面会する。【信長公記】
宇喜多直家は秀吉とともに毛利領の祝山城を攻撃する。これにより、毛利軍が荒木村重の有岡城、別所長治の三木城を支援できなくなる。

1579年10月24日、明智光秀が安土へ入り、信長に丹波・丹後を平定したことを報告する。

1579年11月4日、信長が上洛する。翌5日、二条新御所(妙覚寺の東隣)の普請が完了、禁裏の誠仁親王へ進上する。(二条新御所は"下御所"と呼ばれる)

有岡城の処分

1579(天正7)年10月15日、滝川一益の調略により離反者が出たことで織田軍が有岡城を攻撃、城を制圧する。
幽閉されていた黒田官兵衛を救出する。

11月19日、明智光秀が信長の許しを得、荒木村重へ開城の条件を伝える。
花隈・尼崎を開城すれば有岡城本丸の家臣や親族を助命するとした。
有岡城の荒木久左衛門ら家臣衆が兵300とともに尼崎城へ移った村重の説得に向かう。
しかし荒木村重は受け入れず(本願寺衆が拒否したとも言われる)、織田との交渉は破談となる。説得できなかった荒木久左衛門はそのまま姿を消してしまう。

有岡城内の処分が行われる。
「村重家臣の一人が鉄砲で頭を撃ち自害する。妻子や女房衆は気が気ではなく、尼崎からの迎えを今か今かと待ち続けていた。
しかし尼崎へ向かった侍達は妻子兄弟を捨て我が身一つ助かろうと向かったと伝えられる。声も抑えず泣き悲しむ姿は目も当てられず、武士達も涙を流さない者はいなかった。」「信長は不憫に思うも、悪人懲らしめのためと、荒木一類の成敗を申し付ける。」【信長公記】

12月13日、女房衆122人が尼崎の刑場へ連れ出される。
「荒々しい武士たちが引き上げて磔にし、鉄砲で次々に撃ち殺し、槍・長刀で刺し殺した。女房たちはいっせいに悲しみの叫び声を上げ、天にも響くほどだった。これを見た人は二、三十日の間はその面影が目について忘れることができなかった。」

また下働きの男女500名が家に押し籠められ、草を積んで焼き殺される。

12月14日、信長が妙覚寺へ入り、京での処刑を命じる。

12月16日、一族の妻子や重臣の家族30名は洛中を車に乗せられ、六条河原で処刑される。「たし(荒木村重の妻)は車から降りるときに帯を締め直し、髪を高く結い直し、小袖の襟を開け、立派に斬られた。」【信長公記】

12月、信長が京都の石清水八幡宮の修繕に1,000貫を寄進する。

12月19日、信長が安土へ帰城する。

その後尼崎城の荒木村重は花隈城へ移り、翌年織田軍の攻撃を受ける。

<徳川家>

1578(天正6)年10月28日、東海地方で地震が起きる。
「申刻(16時頃)に大地震があった。五十年来の大地震とのこと。半時ほどまた少し揺れがあった。戌刻にも地震があった。」【家忠日記】
(【多聞院日記】にも10月29日条で「大地震了」と記載。)

信康切腹事件 ※【家忠日記】による経過

(1567(永禄10)年5月、家康の嫡男 松平信康が徳姫(信長の娘)と結婚。1570(元亀1)年、信康が岡崎城主となる。)

1578(天正6)年2月4日、信康の母 築山殿から松平家忠へ連絡が届く。

1579(天正7)年6月5日、家康が信康と(※欠損のため不明)の仲直りをするため浜松から来る。

8月3日、家康が浜松から岡崎へ来る。

8月4日、御親子仰せられ、信康は大浜へ退かれた。(原文:御親子被仰様候て、信康大浜江御退候。)

8月5日、(家忠が)岡崎へ行き、家康より早々に弓・鉄砲衆を連れ、西尾へ行くように命じられ西尾へ行く。家康も西尾へ移られた。

【8月8日付 堀秀政宛 徳川家康書状 信光明寺文書】
「この度酒井忠次を申し上げたところ、いろいろ懇ろなもてなしや取り成し、かたじけなく思います。信康は不覚悟につき、去る四日に岡崎を追放しました。」

8月9日、信康が大浜から遠江国堀江城へ行く。

8月10日、家康より鵜殿善六郎が使いとして岡崎へ来た。各国衆は信康と音信しないと起請文を提出した。

8月13日、十二日に家康は浜松へ帰った。

8月29日、築山殿が富塚で殺害される。【松平記】

9月15日、二俣城で信康が自害する(20歳)。【三河物語】

※【松平記】には、信康は鷹狩の際縁起の悪い僧侶に会ったため縛り殺したり、盆踊りで服装が貧相な者や踊りの下手な領民を弓で射殺するなど日頃から乱暴であった。築山殿は今川氏真から切腹させられた父のことで家康を恨み、甲斐から中国の医者を読んで愛人とし武田に通じた、と記載。

参考文献:『松平家忠日記と戦国社会』久保田昌希(編) 岩田書院

1579年9月、御館の乱をきっかけに武田と決別した北条が徳川と同盟を結ぶ。

1579年10月、浜松城を改修中の松平家忠の詰所へ今川氏真が訪れ、家忠がもてなしをする。【家忠日記】

<武田家>

1578(天正6)年3月13日、越後で上杉謙信が死去。
1578年5月、御館の乱。武田は北条とともに上杉景虎を支援する。

1578年5月、武田信豊を越後へ出陣させる。

1578年6月29日、勝頼は越後に入り景勝の申し出を受けて甲越同盟を結ぶ。同盟の条件として東上野への攻略の承認と北信濃を武田へ譲渡させる。これにより北条との甲相同盟は破綻する。

勝頼は春日山城へ軍を侵攻させる。
8月29日、勝頼はどちらにも加勢しないことを伝え、両者に和睦を勧めるが破談となる。その後勝頼は甲斐へ帰国する。

10月20日、武田から菊姫(武田信玄の五女)が景勝との婚姻のため越後へ到着。

1579(天正7)年2月、吉川元春から、荒木村重の内応に合わせて毛利軍が2月5日に出陣すると報せが入り、当方も手を合わせ尾張・美濃へ侵攻すると返事を送る。(毛利軍は動かず共同作戦は実現しなかった)【吉川家文書】

1579年3月24日、上杉景虎が自害し、御館の乱が終結する。
1579年、御館の乱で敗走した北条高広が武田に降り、上野 厩橋城を支配下に置く。
1579年6月頃、新たな同盟先として佐竹と甲佐同盟を結ぶ。

1579年7月、飛騨の江馬家臣の河上富信が武田に服属を申し出る。江馬氏は上杉謙信死後の帰属先に武田を選び、敵対する姉小路氏は織田につく。

1579年、武田軍が武蔵へ侵軍、鉢形城を攻撃。

12月、真田昌幸が北条方の沼田城を調略、小中彦兵衛尉、河田重親を内応させる。

<北条家>

1578(天正6)年3月、上野 今村城の那波氏が北条に服従する。

1578年4月、氏政は常陸に出陣。5月、小川台で佐竹・結城・宇都宮・那須との北関東連合軍と対峙。一ヶ月の対峙の後、双方撤退する。

1578年3月、越後で御館の乱が起きる。北条は武田とともに上杉景虎(北条氏康の七男)の支援を決定。

1578年6月、共同作戦を行う武田勝頼が独断で景勝と甲越同盟を結び、武田との甲相同盟が破綻する。

1578年7月、景虎方の厩橋城 北条高広・景広が越後へ侵攻。8月、小川台合戦を終えた氏政は上野国へ出陣。北条軍が混乱状態の上杉領 沼田城(城主 藤田信吉)を占領する。

1578年9月に北条氏照・氏邦が三国峠から越後に入り景勝方の荒戸城、樺沢城を攻略。景勝と手を結んだ武田軍は春日山城へ進軍。北条軍を牽制する。
10月、雪のため進軍を中断、上野国へ撤退する。(※旧暦の10月は新暦の11~12月)

1579(天正7)年2月、北条景広が討死、北条高広は上野国へ撤退する。
1579年3月24日、上杉景虎が自害し、御館の乱が終結する。

1579年8月、武田軍が上野国へ侵攻。厩橋城主の北条高広が武田方に降る。

1579年9月、氏照が信長のもとへ訪れ、献上儀礼を行う。

1579年9月、武田が佐竹と協力関係を築いたため、氏政は徳川と同盟を結ぶ。
佐竹・結城・宇都宮ら反北条連合と対立を深める。

12月、武田家の真田昌幸が沼田城を調略、小中彦兵衛尉、河田重親が武田につく。

1579年、武田軍が武蔵へ侵軍、鉢形城を攻撃。
1579年頃、下野国の壬生氏が北条につく。

<上杉家>

1578(天正6)年1月、下総の結城晴朝から出陣要請が入る。1月末、関東への陣触れを出す。

1578年3月9日、上杉謙信が脳卒中で倒れる。
3月13日、上杉謙信が死去(49歳)。

御館の乱

上杉謙信は後継者を決めていなかったため、家中は景勝(長尾政景の次男、23歳)派、景虎(北条氏康の七男、25歳)派に分かれ家督相続争いが起きる

1578(天正6)年3月15日、景勝が春日山城の本丸 実城を占拠、黄金・武器を確保する。(景虎は二の郭に居城)

越後国中郡にある三条城主 神余親綱が領内から人質を集めて守りを固めたことから景勝が謀反を疑う。景勝の強硬な態度もあり講和に至らず(三条手切)、両者が対立する。家臣は両派に分かれ、栃尾城主 本庄秀綱、御館の上杉憲政が神余親綱につく。

春日山城内では景勝が景虎方へ離反したとして北条高定を殺害する。

1578年4月末、越中の河田長親のもとへ織田家から上杉家を離反するよう調略がかけられるが、河田長親は拒否する。

1578年5月10日、三条城の西にある与板城が本庄秀綱ら反景勝勢により攻撃される。

1578年5月、景虎が春日山城を出て御館(前関東管領 上杉憲政の居城。春日山城から北東へ約3.5kmの位置)へ入る。景虎についた諸将ら兵5,000が集まる。

景虎は北条・武田に援軍を要請、北条氏政は血族である景虎を、北条と同盟関係にある武田も景虎を支援する。

5月17日、桃井伊豆守ら景虎軍が御館から出撃、春日山城を攻撃する。景勝軍は防戦し、桃井伊豆守が討死。景虎軍は退却する。

春日山城に近い鮫ヶ尾城、猿毛城、直峰城が景虎方につき、春日山城は景虎方に包囲される。上野国では厩橋城の北条高広・景広、沼田城の河田重親が景虎方につく。

5月29日、景虎が蘆名盛氏へ、自身は優勢であり、武田からは武田信豊が援軍に来ていることを伝える。【歴代古案】

5月、武田勝頼が武田信豊を越後へ侵攻させる。

6月上旬、景勝は東上野、北信濃の譲渡を条件に武田勝頼へ同盟を提案する。勝頼はこの同盟案を受け入れる。

6月11日、景勝が出陣、御館の城外で戦闘となる。翌日景虎軍が退却する。
また景虎方の直峰城、旗持城を攻撃し、落城させる。
景虎方の上杉景信(古志長尾家当主、栖吉城主)が討死する。

6月28日、景勝軍が御館を攻撃する。

7月27日、景勝が出陣、御館を攻撃する。景勝は血盟を交わした武田勝頼の心中がわからないとして武田軍に備え守備隊を配置させる。

7月、景虎方の厩橋城主 北条高広・景広父子が越後に入る。
同盟案を受け入れた武田勝頼は春日山城へ軍を侵攻させる。
8月、景勝は武田との同盟が整い、祝儀の使者を甲府へ送る。
8月29日、勝頼はどちらにも加勢しないことを伝え、両者に和睦を勧めるが破談となる。その後勝頼は甲斐へ帰国する。

9月、北条氏照・氏邦が三国峠を越えて越後へ侵攻、景勝方の荒戸城、樺沢城を攻撃、占領する。坂戸城(城主 深沢利重)は北条軍の攻撃を防ぐ。北条軍は樺沢城に入り攻撃拠点とする。

9月22日、越中 松倉城の河田長親(河田重親の甥)から景勝へ、病で出陣できないが近日御味方として参陣すると伝えられる。

景虎方の栃尾城主 本庄秀綱が御館に入る。

9月26日、御館の景虎軍が出撃、大場で交戦となる。景勝は新発田重家の活躍により景虎軍の攻撃を防ぐ。

9月下旬、武田軍の牽制と降雪後は行軍できなくなるとして北条軍が上野国へ撤退を開始。樺沢城には北条高広と河田重親を在番させる。北条景広は御館へ入る。

10月、景虎方は北条景広が旗持城を、本庄秀綱が下倉山城を攻撃するが敗退する。

10月20日、武田から菊姫(武田信玄の五女)が景勝との婚姻のため越後へ到着。
10月24日、景勝が御館へ出陣。景虎方の本庄秀綱と交戦し、勝利する。その後本庄秀綱は御館を脱出、栃尾城へ撤退する。

12月、越中 松倉城の河田長親が景勝方として参戦する。

1579(天正7)年1月、景勝が高津城を攻撃、占領する。これにより御館が孤立状態となり兵糧不足となる。

2月2日、景勝軍が御館を攻撃。この戦いで北条景広が討死する。景虎方は劣勢となる。

景勝軍が樺沢城を攻撃する。北条高広は樺沢城を捨て、上野 厩橋城へ撤退する。また景勝軍は荒戸城も奪還する。

3月、上杉憲政は景虎へ降伏を勧め、景勝へ降伏を伝える。景勝は景虎の嫡男 道満丸を人質に出すよう伝える。上杉憲政は道満丸を連れ春日山城へ向かうが、道中で景勝の兵に襲われ殺害されてしまう。

3月17日、景虎は御館を脱出し、鮫ヶ尾城へ入る。しかし3月24日、城主 堀江宗親が寝返り、追い込まれた景虎は自害する(26歳)。

栃尾城へ戻った本庄秀綱、三条城の神余親綱ら残党勢力はその後も抵抗を続け、翌年1580(天正8)年6月に鎮圧する。

1579年8月、御館の乱により統制力の落ちた能登 七尾城では旧畠山家臣 温井景隆・三宅長盛が織田に寝返り、七尾城を攻撃、占領される。

1578年、謙信の死後、上杉方だった飛騨の三木氏・江馬氏が離反する。

<真田家>

1579(天正7)年12月、真田昌幸が沼田城の小中彦兵衛尉、河田重親を武田へ内応させる。

<毛利家>

1578(天正6)年3月、輝元の調略により播磨国の別所長治を寝返らせる。

1578年4月、上月城の戦い。輝元、吉川元春、小早川隆景が織田方の上月城(城主 尼子勝久)を攻撃。羽柴秀吉が救援に来るも接近できず、高倉山に布陣して対陣が続く。5月には滝川一益・明智光秀・丹羽長秀ら織田の援軍が播磨に入る。しかし6月、信長の命で秀吉は救援を中断、三木城攻撃へ引き返す。

7月5日、上月城は兵糧が尽き降伏。尼子勝久は自害、これにより尼子氏を滅亡させる。山中鹿介は輝元のもとへ護送中に殺害される。

1578年11月6日、第ニ次木津川口の戦い。九鬼水軍の大砲攻撃により退却する。

1579(天正7)年1月、輝元は荒木村重・別所長治へ加勢するため1月16日の出陣命令を出す。【湯浅家文書】
(しかしその後出陣を延期。小早川隆景は自国で国衆の謀反が起きており派兵に積極的でなかった)※参考文献:『毛利輝元 西国の儀任せ置かるの由候』光成準治(著) ミネルヴァ書房

1579年1月25日、吉川元春が武田勝頼に、2月5日に毛利軍が摂津・和泉に出陣することを伝える。勝頼からは呼応するとの返事があり、また備後の義昭からも再三上洛に協力するよう御内書が届くが、輝元は再び出陣せず。

1579年8月頃、宇喜多直家が離反、織田につく。(離反の理由は行動力のない輝元を見限った、領土拡大のため織田を選択した、と言われる)
宇喜多の離反により、内応させた荒木村重の有岡城、別所長治の三木城と分断される。

1579年9月、以前から織田と内応していた伯耆の羽衣石城主 南条元続が、毛利派の家臣 山田重直の堤城を攻撃、織田へ離反する。これにより因幡の鳥取城が分断される。

1579年10月、宇喜多直家が秀吉軍の協力を得て祝山城を攻撃。戦いは長期戦となり包囲が続く。(落城できなかったと言われる)

1579年10月15日、摂津 有岡城が織田軍の攻撃を受け落城する。

1579年12月25日、毛利輝元・小早川隆景・吉川元春が宇喜多領の忍山城を攻撃、占領する。

毛利家は荒木村重・別所長治の寝返りに合わせて軍事行動を起こせず、宇喜多、南条氏が離反したことで信長防衛線が崩れてしまう。

<宇喜多家>

1579(天正7)年5月、美作東部の後藤氏 三星城を攻撃。後藤勝基は自害、美作を支配下に置く。
1579年9月、秀吉が安土城を訪れ信長に直家の赦免を願うが信長は拒否。翌10月末に認めれ、織田の傘下に入る。秀吉の取次で宇喜多基家が摂津で信忠に面会する。【信長公記】

1579年10月、宇喜多直家が秀吉軍の協力を得て毛利領の祝山城を攻撃。戦いは長期戦となり包囲が続く。(落城できなかったと言われる)

1579年12月25日、毛利輝元・小早川隆景・吉川元春が忍山城を攻撃、占領される。

<長宗我部家>

1578(天正6)年頃、三好(十河)存保が三好長治の後継ぎとして勝瑞城へ入る。

1579(天正7)年、長宗我部軍が阿波 岩倉城(城主 三好康俊 (三好康長の嫡男))を攻撃、降伏させる。三好存保も長宗我部軍と交戦するが、翌年1月、勝瑞城を捨て讃岐 十河城へ撤退する。

1579年、讃岐西部の香川信景が帰属を示し、香川氏と同盟する。
1579年3月、長宗我部軍が伊予宇和郡へ侵攻するが6月、西園寺氏に敗北する。伊予の毛利派である河野通直と対立する。

<龍造寺家>

1578(天正6)年3月、有馬氏を降伏させ、肥前国を平定する。

1579(天正7)年、耳川の戦いで敗れた大友領へ侵攻。北九州の国衆、秋月・筑紫・原田・浦池氏が服属する。

龍造寺隆信は肥後の隈部氏(隈部親永)と手を結び、肥後へ侵攻。(隈部親永は1570年の今山の戦いで隆信に捕らえられるも、国へ返されていた)

1579(天正7)年、肥後 筒ヶ岳城を攻撃、占領。

<大友家>

1578(天正6)年1月、縣土持氏の土持親成が大友から離反、島津方につく。

島津に追われ大友宗麟を頼った伊東義祐が豊後へ入る。

1578年4月、大友軍(総大将 田原紹忍(親賢)、兵43,000)が日向北部へ侵攻、土持氏の松尾城を攻撃、占領。土持親成が自害。

日向北部のその他豪族は大友方につく。

1578年9月、大友軍が耳川を渡り、南下を開始。
大友宗麟は牟志賀(無鹿)(高城から北へ60km)に着陣する。

1578年9月、島津征久が抵抗する旧伊東勢の上野城、石ノ城を攻略する。

旧伊東家臣の長倉祐政が再び蜂起、三納城を占領し、島津領の都於郡城を攻撃する。

1578年10月20日、大友軍が日向を南下、島津領の高城を包囲する。
援軍に来た島津家久(3,000)が高城(城主 山田有信)に入城、膠着状態となる。

耳川の戦い

1578(天正6)年10月24日、島津義久の本隊が鹿児島から出陣。

1578年11月初旬、島津義久が佐土原城へ入る。

1578年11月10日、島津義弘が財部城へ進軍。11日、大友軍の陣へ奇襲を行う。

1578年11月12日、島津義久が高城南に位置する根白坂に陣を構える。
島津軍の囮作戦により、小丸川を渡った大友軍は島津軍の包囲攻撃を受け、敗走。耳川まで追撃され壊滅する。

合戦後、牟志賀の陣で敗北を聞いた大友宗麟も豊後へ退却する。

【フロイス日本史】耳川の戦いを開く

敗北の報せを聞いた大友宗麟は宣教師らと豊後へ退却。道中は厳しい寒さの中で急流を何度も渡ったり、危険な崖を歩くなど困難を極めた。

臼杵へ到着後、大友宗麟は隠居を決め、嫡男 義統に家督を譲る。

この戦いで大友家は家老の吉岡鑑興・田北鎮周・佐伯宗天が討ち死に、多くの兵を失い、国力が疲弊する。

耳川の戦い後、北九州の国衆 秋月・筑紫・原田・浦池氏が龍造寺につき、立花山城(戸次道雪)を攻撃する。肥後 隈本城の城親賢も離反。

1579(天正7)年、家臣の田原親貫が反乱を起こす。隠居していた宗麟が出陣、反乱を抑える。

1579年8月、筑前高祖城の原田氏が柑子岳城へ兵糧を運ぶ戸次道雪の軍を攻撃。大友軍は柑子岳城を捨て退却する。また龍造寺軍の攻撃を受け、荒平城を奪われる。

筑前の諸城を落とされたことで、戸次道雪が博多の守備を行う。

<島津家>

前年より島津軍が日向の伊東領へ侵攻。野尻城、都於郡城、佐土原城を落とす。
伊東義祐は城を追われ、豊後の大友宗麟を頼る。

1578年(天正6)9月、伊東氏残党が守る上野城、石ノ城を落とす。

島津軍は日向全土を掌握できていないため、日向北部を捨て耳川を防衛ラインとした。

1578年9月、大友軍が耳川を渡り、南下を開始。
1578年10月20日、大友軍が日向を南下、高城が包囲される。
援軍に来た島津家久隊(3,000)が高城に入城、膠着状態となる。

1578年11月12日、耳川の戦い
島津義久・義弘が高城南に位置する根白坂に陣を構える。
島津軍の囮作戦により、小丸川を渡った大友軍を島津軍が包囲攻撃。大友軍は総崩れとなり北へ敗走。島津軍は耳川まで追撃し、大友軍を壊滅させる。

1579(天正7)年、隈本城の城親賢に援軍を送る。

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