戦国時代勢力図と各大名の動向ブログ

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康など戦国武将の年表と勢力地図まとめ

1560年 - 64年 桶狭間の戦いで今川義元が討死

戦国時代1560年の勢力図
更新日 2018/8/3
<織田家>


1560年以前の尾張国

尾張国は守護大名の斯波氏と守護代の織田大和守家(清須織田氏)、そして織田伊勢守家(岩倉織田氏)が統治していた。
斯波氏が今川との争いに敗れると、織田大和守家に仕える清須三奉行の一つ弾正忠家の当主 織田信定(信長の祖父)が自治都市だった交易都市の津島や勝幡を支配して経済地盤を固める。

1526(大永6)年頃、織田信定の嫡男 信秀が家督を継ぎ勝幡城主となる。

1534(天文3)年5月、織田信秀に嫡男 吉法師(後の信長)が誕生する。
(信長出生地は勝幡城と那古野城の2つの説があるが近年の有力説は勝幡城)

織田信秀が1538(天文7)年頃に那古野城を奪い、勢力を拡大する。

1540(天文9)年、織田信秀が西三河の安祥城を攻略する。西三河で松平広忠(徳川家康の父。岡崎城主)と勢力争いを続ける。

<尾張国周辺の位置関係>

※河川は明治時代古地図を基に作成、海岸線は江戸時代絵図を基にした推定図
※木曽川は1586(天正14)年8月の洪水以降の流路。洪水後に国境線となる。
※鎌倉街道は当時の宿場とされる位置を結んだ推定経路

1544(天文13)年、織田信秀が美濃 稲葉山城を攻撃して大敗、1548年に第2次小豆坂の戦いで今川方の太原雪斎に敗北する。

1546(天文15)年、古渡城で織田信秀の嫡男 吉法師が元服、信長と名乗る(13歳)。

1548(天文17)年、織田信秀が斎藤道三と和睦、条件として息子 信長と斎藤道三の娘 濃姫を婚約させる。

1549(天文18)年、織田信秀が今川軍の攻撃を受け安祥城を失う。この時人質としていた竹千代(6歳)(後の徳川家康)を今川へ引き渡す。
1549年3月、松平広忠が病死する(24歳)。※暗殺説もあり

1550(天文19)年、今川義元が大軍で知多半島へ侵攻。この頃、鳴海城の山口教継が今川へ協力することを伝える。

1552(天文21)年、織田信秀が死去(42歳)。織田信長(18歳)が家督を継ぎ那古野城主となる。※年は諸説あり ※信長の兄 信広・信時は側室の子(庶子)であるため信長が相続者となる

信秀の葬儀の際、信長は焼香を位牌に投げつける。「信長が焼香にお立ちになる。その時の信長公の出で立ちは長柄の太刀、脇差を縄で巻き、髪は茶筅に立て、袴もお召しにならず、仏前に出て抹香をつかんで仏前へ投げ懸け、お帰りになった。…三郎信長公を例のごとく大うつけよ、とうわさし合った。」【信長公記】

鳴海城の山口教継が今川へ離反、鳴海城へ岡部元信ら今川家臣が入る。信長は山口教継を攻撃するが敗北する。

1553(天文22)年4月下旬、斎藤道三から申し出があり、富田の正徳寺で信長が斎藤道三と対面する。

1554(天文23)年、信長が昨年今川方が築いた知多半島の村木砦を攻撃、占領する。
1554(天文23)年、織田大和守家の織田信友が守護大名の斯波義統を殺害する(斯波義統は織田信秀を支援していたため敵対していた)。

1555(弘治1)年、信長は叔父信光と協力し、織田信友を殺害、清須城へ入る。
1555(弘治1)年8月、今川軍が海路から蟹江城を攻撃。美濃で斎藤義龍が父 道三に挙兵。

1556(弘治2)年、斎藤道三が長良川の戦いで義龍に敗北、戦死する。斎藤義龍と組んだ織田伊勢守家が信長に敵対。また信長の弟 織田信行(信勝)が挙兵、信長の重臣 林秀貞も離反して信行につく。

1556(弘治2)年8月、信長が稲生の戦いで信行に勝利、信行と林秀貞を赦免する。
1557(弘治3)年11月、信長の病気の見舞いに清須城を訪れた信行を、信長が河尻秀隆に命じて暗殺する。

1558(永禄元)年、信長に二男 信雄、三男 信孝が誕生する。
1558年、浮野の戦いで織田伊勢守家の織田信賢に勝利。
1558年、尾張北東部の今川領松平氏の品野城を攻撃するが敗北。

1559(永禄2)年2月2日、信長が80名ほどの家来を連れて上洛、将軍足利義輝に謁見する。(尾張をほぼ制圧したことで権威を得るため、守護職を求めることが目的だった)

この時信長暗殺を企てる美濃衆30名が派遣されていたが、先に偵察に来ていた丹羽兵藏が暗殺団を発見、信長に報告する。信長は暗殺団の宿に金森長近を送り、自分のところへ挨拶に来るようにと命じる。翌日信長は暗殺団に会い、威嚇して事なきを得る。【信長公記】

1559年3月、岩倉城の戦いで織田信賢に勝利。織田信賢を追放処分とする。
これにより信長が鳴海、品野を除き尾張国の大半を平定する。

1559年3月、今川義元が七ヶ条の軍令を発布する。

1559年、山口教継の調略により沓掛城・大高城が今川方となる。今川義元は鳴海城に岡部元信、大高城に朝比奈輝勝を配置。山口教継と子 教吉は駿河に呼び出され、切腹となる。

1559年、信長は鳴海城の周囲に丸根砦・鷲津砦・善照寺砦・丹下砦・中島砦を築いて兵を配置、包囲する。

今川義元は大高城へ兵糧補給を行い、鵜殿長照を入れ大高城主とする。(【三河物語】では1558年に松平元康(徳川家康)が大高城へ兵糧を補給し、出陣した信長が清須城へ引き返すと記載)

1560(永禄3)年5月12日、今川義元が駿府城を出陣、尾張へ向かう。

桶狭間広域図
桶狭間の戦い進軍ルート
※進軍ルートは推定

桶狭間の戦い 進軍ルート
桶狭間の戦い進軍ルート・布陣
※正面ルートは豊明市の説(義元本陣は高徳院)、迂回ルートは名古屋市緑区の説(義元本陣は田楽坪)
※今川義元本陣は他に漆山、高根山、64.9m高地(田楽坪の東側)などの説がある
※【松平記】【家忠日記増補追加】では善照寺砦で二手に分かれる
※河川は明治時代古地図を基に作成、海岸線は江戸時代絵図を基にした推定図

桶狭間の戦い

【信長公記(町田本) 首巻 今川義元討死の事】(原文に沿った現代語訳)

「永禄三年五月十七日(※原文の「天文廿一年」の記載は誤り その他2ヶ所)
今川義元が沓掛へ参陣。十八日夜に入り、大高城へ兵糧を入れる。

(織田の)援軍が来ないように、十九日朝、潮の干満を考え砦を襲うのは必定と聞いたことを、十八日夕刻に(丸根砦を守る)佐久間大学(盛重)、(鷲津砦を守る)織田玄蕃(秀敏)から(清洲城の信長へ)注進申し上げた。

その夜の話には軍の手立ては少しも無く、世間の雑談だけをして、すでに夜が更けたので帰宅せよと解散された。家老衆が申すには"運の末には知恵の鏡も曇るとはこの事だ"とそれぞれ嘲弄して帰った。

予想通り夜明け方(5時頃)に、佐久間大学・織田玄蕃から早くも鷲津山・丸根山へ敵の軍勢が攻めかけたと、次々に注進が入る。この時、信長は敦盛を舞われた。

"人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり ひとたび生を得て、滅せぬ者のあるべきか "

と唄い、"法螺(ほら)をふけ、具足をよこせ"と仰せられ、鎧を身につけ、立ちながら食事をとると、兜を被り出陣なさる。

その時のお供には小姓衆、岩室長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、賀藤弥三郎、これら主従六騎、熱田まで三里を一気に駆けられた。

辰の刻(6~8時半 ※夏至の時刻)に源大夫殿宮の前で東をご覧になると鷲津・丸根砦が落ちたと思われ、煙が上がっていた。
この時馬上六騎と雑兵二百余名だけだった。浜沿いから進めば程近いが、潮が満ち入り、馬が通れないため、熱田から上手の道を馬を急がせて駆けられ、先ず丹下砦へ出られ、それから善照寺の佐久間信盛が在陣する砦へ出られて、兵を集めて軍勢を揃えられ、戦況をご覧になる。

御敵今川義元は四万五千を率い、おけはざま山に人馬を休息させていた。

永禄三年五月十九日
午の刻(11~13時)、戌亥(北西)に向かって軍勢を備え、鷲津・丸根砦を攻め落として"満足これに過ぎるものはない"と、義元は謡を三番唄ったという。

この度家康(松平元康19歳)は朱武者(あかむしゃ)として先鋒を任され、大高城へ兵糧を入れ、鷲津・丸根砦で手を砕き、苦労されたことにより、人馬の休息のため大高城に居陣していた。

信長が善照寺砦にお出になったのを見て、佐々隼人正(佐々政次。佐々成政の長兄)・千秋四郎の両名は兵三百余名で義元へ向かって足軽で攻めかかると、敵はどうとかかり来て、槍にて千秋四郎、佐々隼人正をはじめとして五十名ほどが討死する。
これを見て、義元は"我が矛先には天魔鬼神もかなわない。心地はよし。"と悦んで、ゆったり謡を唄い陣に留まっていた。

信長はご覧になって中島砦へ移ろうとするのを、"脇は深田で一騎ずつしか通れない道です。少数の様が敵方からはっきり見えてしまい、不都合です。"と家老衆が馬の轡(くつわ)の引手を取りつき口々に申したが、信長は振り切って中島砦へ移られた。
この時二千に足らない軍勢だったそうだ。

中島砦からまた軍勢を出される。今度は無理にすがり付き止めるよう申したが、この御諚をそれぞれよく聞くようにと言い、
"あの武者は宵に食事をして夜通し来て、大高に兵糧を入れ鷲津・丸根にて手を砕き苦労し、疲れた武者である。こちらは新手である。それに加え、『小軍なりとも大敵を怖るるなかれ、運は天にあり。』この言葉を知らぬか。敵が懸かれば引き、敵が退けば引き付くのだ。何としても覆い倒し、追い崩す事は思いのままである。分捕りはせず、打ち捨てにするように。戦に勝てばこの場へ来た者は、家の面目、末代までの高名である。只励むべし。"

と御諚を伝えるところへ、前田利家、毛利河内、毛利十郎、木下雅楽助、中川金右衛門、佐久間弥太郎、森小介、安食弥太郎、魚住隼人がそれぞれ手に討ち取った首を持って参上した。
先の趣旨を一つ一つ仰せ聞かれ、山際まで軍勢を寄せられたところ、にわかに急な雨が降り、石氷を投げ打つ様に敵の輔(つら)に打ち付け、味方は後方に降りかかる。沓掛峠の松の本にある二抱え三抱えもある楠の木が雨で東へ降り倒れた。余りの事に熱田明神の神軍かと皆が申した。
(※旧暦の5月19日は新暦では6月22日となり梅雨の時期)

空が晴れるのをご覧になり、信長は槍を立てて大声を上げ、"さあ、かかれ、かかれ"と仰せられ、黒煙を立ててかかるのを見て敵は水を撒き散らしたように後ろへくわっと崩れた。弓・槍・鉄砲・のぼり・旗指物を乱したのと同じく、今川義元の塗輿も捨て、崩れ逃れた。

永禄三年五月十九日
"旗本は是なり、是れへ懸かれ"とご命令があり、未の刻(13~15時半)、東へ向かって攻めかかられた。

初めは三百余名の兵が真丸となって義元を囲んで退くが、二、三度、四、五度、返し合い戦い、次第に無人になり後には五十名ほどになった。信長は馬を降り立って若武者とともに先を争い、突き伏せ突き倒し、殺気立った若者が乱れかかり、しのぎを削って鍔(つば)を割り、火花を散らし火焔を降らせた。
乱戦といえども、敵味方の武者の色が紛れることはなかった。ここにおいて馬廻、小姓ら歴々衆の手負いや死人の数はわからないほどだった。

服部小平太が義元にかかり合うも、膝の口を切られ倒れ伏した。毛利新介が義元を討ち伏せ、首を取った。
これはひとえに先年清洲城において武衛様(斯波義統)を(織田三位らが)悉く攻め殺した時、弟君を一人生け捕り助けられたこと、そのご加護がたちまち来て義元の首を取られたのだと、人々はうわさした。

運の尽きた証拠に、おけはざまという所は谷間が入り組み深田があり、高く低く茂みが覆い、難所ということ限りなし。深田へ逃れた者は這いずり廻るところを若武者が追いついて討たれ、二つ三つ手に首を持ち信長の御前へ参った。

首はいずれも清洲にて首実検と仰せられ、信長は義元の首を見て満足気に、もとの来た道を帰陣された。

(中略)
信長は馬の先に義元の首を掛け、急ぎその日のうちに清洲へ入り、翌日首実検を行う。首数は三千余りあった。

(中略)
清洲より熱田へ参る道に義元塚を築かれ、弔いとして千部経を読ませ大卒都婆を立て置いた。義元の秘蔵の銘刀 左文字は信長が帯びることになった。
鳴海城の岡部元信は降伏、一命を助ける。大高城、沓掛城、池鯉鮒城、重原城、鴫原城も退散した。」


※主な人名は一般名称で記載
※時刻は夏至の時刻で表示

【甫庵信長記】桶狭間の戦い (小瀬甫庵・1612年)を開く(別ページ)

参考文献:
『桶狭間合戦の真相』渡辺 文雄(著) 郁朋社
『桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった』藤本 正行 (著) 洋泉社
『新説 桶狭間合戦―知られざる織田・今川 七〇年戦争の実相』橋場 日月(著) 学習研究社
『桶廻間合戦研究』榊原 邦彦(著) 中日出版・他

今川家は主君の今川義元を討ち取られただけでなく、由比正信・一宮宗是・松井宗信・井伊直盛(井伊直虎の父)ら多くの重臣や国衆当主を失う。その後松平元康の独立や国衆の離反が相次いだことから、国力が弱体化した。

1561(永禄4)年5月、美濃斎藤家では斎藤義龍(斎藤道三の嫡男)が病死(35歳)、龍興(13歳)が家督を継ぐ。

1561年6月、信長が美濃へ侵攻。黒俣砦を占領。稲葉山城を攻撃するが斎藤家臣 竹中半兵衛の策により撤退する。

1562(永禄5)年6月、犬山城の織田信清(信長の従兄弟)が斎藤方についたため、信長は信清の小口城を攻撃するも撤退。
1562年、松平元康(徳川家康)と清須同盟を結ぶ。(ただし【信長公記】や【三河物語】など古い史料に清須同盟の記載はない)

1563(永禄6)年、信長が美濃新加納へ侵攻するも敗北。
1563年、小牧山城を築城。信長が居城を清須城から小牧山城へ移す。

1564(永禄7)年、丹羽長秀が加治田城を調略、また犬山城の重臣を調略し味方につける。

1564年2月、斎藤家臣の竹中半兵衛・安藤守就が謀反、稲葉山城に兵を入れ城を占拠する。
半年間の占拠後、齋藤龍興へ城を返還。竹中半兵衛は斎藤家を離れる。

1564年8月、信長が犬山城の織田信清を攻撃、犬山城を占領。信清は甲斐へ逃亡する。

1564年、信長の妹 お市が浅井長政の正室となる。【浅井三代記】※1565年、1567年説も有り。

<徳川家>

1557(弘治3)年1月15日、今川家の松平元信(徳川家康 16歳)が義元の養女 築山殿を正室に迎える。

1558(永禄元)年4月、松平元信が織田へ寝返った西三河の寺部城(城主 鈴木重辰)を攻撃、勝利する。(家康の初陣となる)
義元が元信家臣の足立右馬助へ寺部城合戦や弟の討死について感状を送る。【今川義元感状】

1559(永禄2)年頃、松平元康と改める。
1559年4月、嫡男信康(幼名は家康と同じ竹千代)が誕生。

1560(永禄3)年5月、桶狭間の戦いで松平元康が先鋒を務める。大高城へ兵糧を運び入れ、丸根砦を攻撃する。
合戦後、今川勢は岡崎城、知立城、重原城から撤退。
松平元康が岡崎城へ入り諸城を占領、今川家から独立する。築山殿と信康は駿府に残される。

1560年、長女亀姫が誕生。

1561(永禄4)年、松平軍が今川方の諸城へ攻撃を開始する。

4月、松平元康が牛久保城を攻撃するが敗退。
5月、西尾城を攻撃、占領する。
7月、家康方についた野田城(城主 菅沼定盈)が今川の攻撃を受け、占領される。
9月、東条城を攻撃、占領する。城主吉良義昭を岡崎城へ移す。

1562(永禄5)年、織田信長と清須同盟を結ぶ。(ただし【信長公記】や【三河物語】など古い史料に清須同盟の記載はない)

1562年2月、西郡城(上郷城)を攻撃、城主 鵜殿長照を討ち取る。長照の子 氏長・氏次生け捕りにする。

1562年3月、駿河では、築山殿の父 関口親永(今川家重臣)が娘婿である家康が信長と同盟を結んだことで今川氏真に疑われ、妻とともに自害に追い込まれる。

駿府にいる築山殿・信康・亀姫と、鵜殿長照の子 氏長・氏次との人質交換が成立。築山殿・信康・亀姫を取り戻し、岡崎へ移す。

1562年6月、菅沼定盈が野田城を奪還する。

1563(永禄6)年3月、松平家康が牛久保城を攻撃、退却する。

三河一向一揆

1563(永禄6)年、西三河に地盤を置く一向宗と対立が深まり、一揆が勃発する。

「永禄五年に、本證寺の寺内に罪人がいたのを、西尾城主 酒井正親が押し込み罪を裁いたので、永禄六年正月に各地域の門徒衆が集まり、土呂・針崎・野寺・佐崎に取り籠り一揆を起こし、御敵となった。」【三河物語】※発端の原因は史料により異なる

三河三ヶ寺の本證寺・上宮寺・勝鬘寺は守護使不入(守護大名の介入を拒否する特権が与えられた領地。夫役・段銭の免除、罪人逮捕禁止などの特権がある)となっていたが、家康に特権を侵害されたとして全門徒が蜂起、西三河は内乱状態となる。

家康の家臣にも多数の一向宗門徒がおり、本多正信・本多正重兄弟、石川重康、夏目吉信らは一揆方、本多忠勝・石川数正らは家康方につき各家でも派閥が分かれた。

西尾城(酒井正親)、深溝城(松平伊忠(松平家忠の父))、竹之谷城(松平清善)、形之原城(松平家忠(形原松平家))、土井城(本多広孝)などは家康方となる。

針崎、上和田など各地で戦闘が行われる。
10月、挙兵した吉良義昭の東条城を攻撃。

1564(永禄7)年1月、馬頭原の合戦で勝利。一揆方の蜂屋貞次が降伏を申し出、和睦となる。

家康は降伏した蜂屋貞次ら家臣を赦免、寺院や道場を全て破壊し、僧侶は追放とした。本多正信も追放処分となる。
(本多正信はその後加賀一向一揆に参加していたが、1580年頃までに大久保忠世の仲介により徳川家に復帰する)

1563(永禄6)年7月、松平元康から松平家康へ改名する。(徳川の姓を名乗るのは永禄9年12月29日)

12月、遠江 曳馬城(後の浜松城)の城主 飯尾連龍が今川から家康方へ離反、今川軍の攻撃を受ける。(その後飯尾連龍は今川氏真に呼び出され処刑される。)

1564(永禄7)年、中断していた三河平定を再開、東三河へ侵攻する。

6月、松平家康が吉田城を攻撃。城主小原鎮実は降伏、吉田城を占領する。
6月、田原城を攻撃、占領する。
9月、一揆に加担した三河北部の上野城を攻撃、占領する。
10月、三河北部の足助城を攻撃、占領する。

<武田家>

1559(永禄2)年頃、武田晴信が武田信玄へ改名する。

北信濃では1557(弘治3)年、長尾景虎(上杉謙信)との上野原での小規模な合戦(第三次川中島合戦)が起き、また武田信玄の川中島・善光寺までの進出したことで、緊張状態が続く。
武田信玄は戦いに備え、海津城(後の松代城)を築城する。

第四次川中島の戦い(八幡原の戦い)
(【甲陽軍鑑】による経過)

1561(永禄4)年8月18日、上杉政虎(謙信)の出陣を受け、武田信玄(兵数17,000)が甲府を出陣する。

上杉軍が川中島へ進軍、妻女山(さいじょさん)に布陣する(兵数13,000)。(【甲越信戦録】では本隊から5,000の兵が善光寺に残る)

8月24日、武田軍が川中島へ到着、雨宮の渡しに布陣する。(【北越軍談】【武田三代記】などでは茶臼山山頂に布陣)

8月29日、武田軍は広瀬の渡しを越え、海津城(兵数3,000)に入る。

9月9日夜半、武田信玄は兵を二手に分ける作戦を実行。本隊(8,000)は千曲川を越え八幡原(はちまんばら)へ向かい、別働隊(高坂昌信・馬場信房 12,000)は妻女山へ夜襲を行う。

9月10日卯の刻(5~7時)、濃霧の中、本隊が広瀬の渡しを越え八幡原へ布陣する。そこへ上杉軍と遭遇、交戦となる。武田軍は劣勢となる。

上杉政虎が武田本陣へ斬り込み、馬上から武田信玄へ三太刀浴びせる。床几に座っていた信玄は軍配でこれを防ぐ。中間頭の原大隅守が槍で馬を突き、政虎は走り去る。

妻女山ではすでに上杉軍はおらず、別働隊は下山する。千曲川で上杉殿軍の甘粕景持が待ち受けており、交戦となる。

巳の刻(9~11時)、甘粕景持隊を突破した別働隊が八幡原へ進軍、上杉軍を攻撃する。背後から攻撃を受けた上杉軍は北の善光寺へ撤退を開始。

申の刻(15~17時)、合戦が終了する。

この戦いでの戦死者は上杉軍3,000、武田軍4,000。
武田軍は武田信繁、山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次ら重臣が戦死する。

合戦後、上杉政虎が撤退したことで川中島四郡は武田領となる。

【甲陽軍鑑】の川中島の戦いを開く

※【上杉家御年譜】では上杉軍は御幣川下流まで武田軍を押し込み、荒川伊豆守が信玄に斬りかかったと記載。
「荒川伊豆守が馳せ来て、信玄と見澄まし、三太刀まで討てども貫き通せず、信玄は太刀を抜き合う間もなく、軍扇をもって受け外す。」

1561年11月24日、武田信玄が西上野へ侵攻。上杉方の国峰城を攻撃、占領。

1562(永禄5)年9月、武田信玄が再度西上野へ侵攻、箕輪城・総社城・倉賀野城を攻撃。

1563(永禄6)年2月、武田軍が南下、北条軍とともに上杉方の松山城を攻撃、占領。
1563年10月、武田の真田幸隆が上杉方の上野 岩櫃城を攻撃、占領。

1564(永禄7)年、武田軍が上野 安中氏の松井田城、安中城を攻撃、占領。

1564年6月、山県昌景が飛騨へ侵攻、江馬時盛と対立する息子 輝盛を攻撃。7月に輝盛を降伏させる。その後三木氏を攻撃する。

1564年8月、三木氏の救援に上杉方の河田長親が越中から侵攻。上杉軍の信濃侵攻の報せが入り武田軍は飛騨から撤退する。飛騨では江馬時盛が三木氏・輝盛と和睦、上杉方につく。

1564年8月、第五次川中島の戦い
武田の飛騨侵攻に対し、上杉輝虎が信濃へ侵攻。7月29日、善光寺へ入り、8月3日、川中島へ進軍する。
武田信玄も川中島方面へ進軍するが、塩崎城に入り籠城する。その後10月下旬まで対峙し、両軍は撤退する。

<北条家>

1560(永禄3)年9月、上杉謙信が関東遠征を行う。厩橋城を拠点に関東七ヶ国から武将を集める(総勢113,000)。
北条氏康は松山城に入るが小田原城へ撤退する。北条軍は小田原城、玉縄城、滝山城、河越城、江戸城で籠城を行う。

1561(永禄4)年3月初旬、小田原城の戦い。上杉謙信率いる関東連合軍に小田原城を包囲される。謙信は鎌倉へ移動。
4月3日、連合軍の一部が無断で撤退を開始。小田原城の包囲が解かれる。
その後上杉方についた諸城を取り戻す。

12月、北条軍が下野 唐沢山城(城主 佐野昌綱)を攻撃、佐野昌綱を降伏させる。

1562(永禄5)年2月、北条氏康が古河公方 足利藤氏の古河城を攻撃、占領。足利藤氏は里見義堯を頼り上総へ。

1563(永禄6)年2月、北条・武田軍が上杉の松山城を攻撃、占領。以降北条の拠点として支配下に置く。
1563年3月、上杉謙信によって古河城に足利藤氏が復帰。
1563年9月、北条軍が古河城を攻撃、足利藤氏を捕える。足利藤氏は小田原へ送られ、その後処刑されたと言われる。
1563年、武蔵 深谷城を攻撃。深谷上杉氏の上杉憲盛を降す。

1564(永禄7)年1月、第ニ次国府台合戦。援軍の上杉軍到着前に短期決戦で里見軍を攻撃し、勝利。その後上総へ侵攻、久留里城を占領。西上総を支配下に置く。(久留里城は66年に里見が奪還)

氏康は上杉方の武蔵 岩付城(城主 太田資正)を内紛に乗じて占領、嫡男 氏資を岩付城主とし、北条配下に治める。太田資正はその後佐竹氏を頼り配下となる。
1564年4月、下野 小山城(別名 祗園城)、結城城を占領。

【関東 城マップ】
関東の城

<上杉家>

1559(永禄2)年春、長尾景虎(上杉謙信)が5,000の兵を率いて上洛。【細川家記】(上杉謙信は1553年に続き二度目の上洛)
道中は加賀の本願寺、越前の朝倉義景、近江の六角義秀(いずれも反三好勢力)からの支援があり、京へ入る。京では松永久秀らの訪問を受ける。

足利義輝から関東管領職の補佐を命じられる。景虎は関白 近衛前久(このえさきひさ)と血判状を交わし盟約を結ぶ。

1560年4月、景虎が越中の神保長職を攻撃、富山城を攻略する。

1560(永禄3)年8月~61年6月、第一回関東遠征。関東管領上杉憲政の要請受け、景虎が関東へ出陣する。
1560年9月、越後から三国峠を越え、上野 沼田城、厩橋城、那波城、武蔵 忍城、羽生城を占領。

1561(永禄4)年1月、古河城へ侵攻。北条が擁立する関東公方の足利義氏は城を捨て小田原城へ撤退する。
この頃、関東七ヶ国から諸将が集まり総勢113,000となる。

近衛前久は越後や関東へ赴き、古河城に留まるなど2年間景虎を支援する。

1561年3月、小田原城の戦い
3月13日、景虎が平塚の山下に本陣を置き、攻撃を開始。下旬までに連合軍は酒匂川まで占領、小田原城を攻撃する。
閏3月16日、景虎は小田原城から鎌倉へ移動、鶴岡八幡宮で上杉憲政から関東管領を相続。山内上杉の名跡を継承し、長尾景虎から上杉政虎へ改名する。

1561年4月3日、連合軍は小田原城攻撃を中止、撤退する。
政虎の撤退後は上杉方に降った武蔵の諸城は北条方に戻る。

1561年4月、北条の松山城を占領。
第一回関東遠征の際、古河公方 重臣の簗田晴助(やなだはるすけ)が足利藤氏を正式な古河公方として擁立。上杉方として古河城に入る。

北信濃では1557(弘治3)年、武田信玄との上野原での小規模な合戦(第三次川中島合戦)が起こり、また武田信玄の川中島・善光寺までの進出があり、緊張状態が続く。
武田信玄は戦いに備え、海津城(後の松代城)を築城する。

第四次川中島の戦い(八幡原の戦い)
(【甲陽軍鑑】による経過)

1561(永禄4)年8月14日、上杉政虎が出陣(兵数13,000)。
上杉軍が川中島へ進軍、妻女山に布陣する。(【甲越信戦録】では本隊から5,000の兵が善光寺に残る)

8月24日、武田信玄(兵数17,000)が川中島へ到着、雨宮の渡しに布陣する。(【北越軍談】【武田三代記】などでは茶臼山山頂に布陣)

8月29日、武田軍が広瀬の渡しを越え、海津城(兵数3,000)に入る。

9月9日夜半、武田軍の挟撃を察知した上杉政虎は妻女山を下り、雨宮の渡しを越え八幡原へ向かう。

9月10日卯の刻(5~7時)、濃霧の中、八幡原で武田信玄本隊と遭遇、交戦となる。武田軍は劣勢となる。

上杉政虎が武田本陣へ斬り込み、馬上から武田信玄へ三太刀浴びせる。床几に座っていた信玄は軍配でこれを防ぐ。武田の中間頭 原大隅守が槍で馬を突き、政虎は走り去る。

妻女山に向かった武田軍の別働隊が下山を開始、千曲川で殿軍の甘粕景持が防戦する。

巳の刻(9~11時)、甘粕景持隊を突破した武田軍が八幡原へ進軍、背後から攻撃を受ける。上杉政虎は北の善光寺へ撤退を開始。

申の刻(15~17時)、合戦が終了する。

この戦いでの戦死者は上杉軍3,000、武田軍4,000。
武田軍は武田信繁、山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次ら重臣が戦死する。

合戦後、上杉政虎が撤退したことで川中島四郡は武田領となる。

【甲陽軍鑑】の川中島の戦いを開く

※【上杉家御年譜】では上杉軍は御幣川下流まで武田軍を押し込み、荒川伊豆守が信玄に斬りかかったと記載。
「荒川伊豆守が馳せ来て、信玄と見澄まし、三太刀まで討てども貫き通せず、信玄は太刀を抜き合う間もなく、軍扇をもって受け外した。」

1561年10月5日、下総古河城に入っていた近衛前久が上杉政虎へ書状送る。
晴信との一戦で大勝され八千余を討ち取られ喜ばしいこと、珍しい振る舞いではないが、ご自身が太刀打ちに及ばれたことは比類なき次第で、天下の名誉であること、また北条氏康が松山城に在陣しているので一刻も早く関東へ出陣してもらいたいと伝える。【上越市史 別編】

1561(永禄4)年11月~62年3月、第ニ回関東遠征。
上杉政虎が上野へ侵攻。館林城を占領、唐沢山城(城主 佐野昌綱)を2度攻撃するも落城できず。関東攻撃拠点の厩橋城に譜代 北条高広(きたじょうたかひろ)を配置する。

12月、将軍足利義輝から偏諱を与えられ(一字を与えられ)、上杉政虎から上杉輝虎へ改名する。

1562(永禄5)年2月、北条氏康が古河公方 足利藤氏の古河城を攻撃、占領。足利藤氏は逃亡。
1562年7月、10月、輝虎が越中国衆 神保長職を攻撃、勝利。

1562年11月~63年6月、第三回関東遠征。武蔵 騎西城、下野 小山城、上野 唐沢山城を占領。

1563(永禄6)年2月、北条・武田軍が松山城(城主 上杉憲勝)を攻撃、占領。輝虎の松山城救援は間に合わず。以降松山城は北条の拠点となる。
1563年3月、輝虎によって古河城に足利藤氏が復帰する。

1563年9月、北条軍が古河城を攻撃、足利藤氏が捕らえられる。

1563年10月、上杉方の椎名氏を攻撃する神保長職を攻撃。増山城を包囲し、神保長職を降伏させる。
長職は畠山義綱に仲介を依頼、畠山義綱は富山城を破棄させ、射水・婦負郡を安堵することとし、輝虎も同意する。

1563年12月~64年4月、第四回関東遠征。常陸 小田城、下野 佐野城、上野 唐沢山城を占領。

1564年6月、武田軍の山県昌景が飛騨へ侵攻、江馬時盛と対立する息子 輝盛を攻撃。7月に輝盛を降伏させる。その後三木氏を攻撃する。
1564年8月、三木氏の救援に上杉方の河田長親が越中から侵攻。上杉軍の信濃侵攻の報せが入り武田軍は飛騨から撤退する。飛騨では江馬時盛が三木氏・輝盛と和睦、上杉方につく。

1564年8月、第五次川中島の戦い
武田の飛騨侵攻に対し、上杉輝虎が信濃へ侵攻。7月29日、善光寺へ入り、8月3日、川中島へ進軍する。
武田信玄も川中島方面へ進軍するが、塩崎城に入り籠城する。その後10月下旬まで対峙し、両軍は撤退する。

1564年夏、家臣の長尾政景(上田長尾氏)が舟による事故で溺死する。輝虎は長尾政景の息子 喜平次(後の景勝。輝虎の甥)を引き取り養子にする。(上杉謙信は府内長尾氏)
また長尾政景の居城である坂戸城を直接支配する。

1564年10月~11月、第五回関東遠征。再び北条についた唐沢山城を占領。

<三好家>

1559(永禄2)年、三好長慶・松永久秀が前年に畠山高政を追放した安見宗房を攻撃。河内 高屋城、飯盛山城を占領、 畠山高政を河内守護に復帰させる。
松永久秀が大和へ侵攻、信貴山城を占領する。

1560(永禄3)年、畠山高政が長慶と対立、長慶は高屋城を攻撃して占領する。

1560年、長慶が居城を摂津 芥川山城から飯盛山城へ移す。

1561(永禄4)年、以前の主君 細川晴元が次男 細川晴之に三好を攻撃をさせたため、長慶は細川晴元を普門寺城に幽閉する。

1561年3月、長慶の弟 十河一存が病死する(30歳)。

1562(永禄5)年3月5日、畠山高政・雑賀衆・根来衆が河内守護の三好実休(長慶の弟)を攻撃。三好実休はで討死にする。(久米田の戦い)

1562年3月7日、畠山と組む六角義賢が京へ入り占拠する。

1562年4月5日、畠山高政の軍が飯盛山城を包囲、三好の諸城を攻撃する。

1562年5月、三好義興・松永久秀・三好康長・三好政康・三好長逸・安宅冬康・十河存保が飯盛山城の援軍として進軍。

1562年5月19日、三好軍(兵60,000)と畠山軍(兵40,000)が教興寺畷付近で交戦。 長慶が畠山高政に勝利、河内から追い出す。(教興寺の戦い)

畠山高政と組んでいた六角義賢は降伏、和睦となる。その後三好軍は大和・河内を制圧。
畠山高政は紀伊へ撤退する。

1563(永禄6)年8月、長慶の嫡男 義興が病死(22歳)。長慶の弟 十河一存の子である重存(義継)を養子に迎える。(重存は関白九条家(近衛家と対立)の血筋であり、重存の妻は室町幕府第12代将軍足利義晴の娘)

1564(永禄7)年5月9日、長慶が弟である安宅冬康を飯盛山城へ呼び出し、自害させる(37歳)。

1564年7月、三好長慶が死去(43歳)。三好義継(16歳)が家督を継ぐ。
義継はまだ幼かったため、実権は三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)と松永久秀が握る。

<毛利家>

1555(天文24)年10月1日、厳島の戦い。毛利元就が(兵数5,000)で陶晴賢(すえ はるかた)軍(兵数30,000)を奇襲攻撃により壊滅させる。

1558(永禄元)年、吉川元春・小早川隆景が大友方の門司城を攻撃、占領する。その後攻防が続く。

1561(永禄4)年10月、大友軍が門司城を攻撃するが毛利軍が勝利する。能島村上武吉率いる水軍が追撃を行い大勝する。
1561年、備中 三村氏を支援し、三村家親が尼子領の備中松山城を占領。

1562(永禄5)年、尼子氏が占領している石見銀山を奪う。

1563(永禄6)年8月、白鹿城を攻撃、9月に落城させる。

1563年9月、毛利元就の嫡男 毛利隆元(41歳)が陣中で急死(毒殺とも言われる)。この時隆元の嫡男 輝元は11歳だったため、元就が後見人として引き続き実権を握る。

<長宗我部家>

1560(永禄3)年6月15日、長宗我部国親が死去(57歳)。嫡男の元親(22歳)が家督を継ぐ。

<大友家>

1558(永禄元)年、小早川隆景が大友方の門司城を攻撃、占領する。その後攻防が続く。

1561(永禄4)年7月、大友軍が毛利が支配する香春岳城を攻撃、占領する。

1561年10月、大友義鎮・立花道雪(戸次鑑連)・田原親堅・臼杵鑑速ら大友軍が門司城を攻撃するが毛利軍に敗北する。以後門司城は毛利の支配下となる。

大友義鎮は出家して宗麟と名乗る。

<龍造寺家>

1559(永禄2)年、龍造寺隆信が東肥前の少弐氏を攻撃、滅亡させる。
千葉氏、江上氏、犬塚氏など肥前の国衆を攻撃して滅ぼす。

1561(永禄4)年9月、抵抗を続けていた三瀬城主 神代勝利(少弐家臣)に川上峡合戦で勝利する。これにより東肥前を支配下に置く。

1562(永禄3)年、神代勝利と和睦。

1563(永禄6)年、有馬・大村氏の連合軍が東肥前を攻めるが、隆信は千葉胤連と組み有馬・大村軍に勝利する。

1564(永禄7)年、少弐氏再興を目指し少弐政興が挙兵するが龍造寺隆信が攻撃、降伏させる。

<伊東家>

1562(永禄5)年、北原兼守の死去に伴い、伊東義祐が北原氏の日向国西部 真幸院へ侵攻。三ノ山城を占領する。

1562年頃、島津豊州家の飫肥城を攻撃、占領するが数ヶ月後に奪い返される。

<島津家>

1555(天文24)年、島津貴久、義久が帖佐城を攻略。
1557(弘治3)年、島津貴久、義久、義弘が蒲生城を攻略。蒲生氏を降伏させる。

1560(永禄3)年、貴久は次男 義弘を島津豊州家救援のため飫肥城(城主 島津忠親)へ送る。翌年帰国。
1561(永禄4)年、肝付兼続が伊東氏と結び島津を攻撃。島津軍は廻城の攻防戦で大敗し、島津貴久の弟忠将が討死する。

1562(永禄5)年、北原兼守の死去により、一族である新納忠元とともに北原領の横川城・栗野城を占領する。

1562年、肝付兼続が島津豊州家の志布志城を攻撃、占領する。

1562年頃、飫肥城が伊東氏の攻撃で占領されるが、数ヶ月後に奪い返す。

1564(永禄7)年、義弘を北原領 真幸院へ送り、飯野城を統治させる。

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