戦国時代勢力図と各大名の動向ブログ

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康など戦国武将の年表と勢力地図まとめ

1580年 - 81年 石山本願寺が滅亡


更新日 2018/8/19
<織田家>

1580(天正8)年、信忠に長男 三法師が誕生。

1580年1月9日、明智光秀が津田宗及と茶会を催す。
1月14日、信長が安土城で津田宗及、松井友閑と茶会を催す。信長が松井友閑へ茶を挽く。
1月25日、吉田兼見が安土へ年頭の礼に訪れる。松井友閑が吉田兼見と細川昭元に茶を振る舞う。【宗及他会記】

別所長治の最期
1580(天正8)年1月、別所長治が守る三木城を包囲している羽柴秀吉が補給路を完全に絶つ。兵糧攻めにより別所軍の兵は戦えない状態となる。

1月6日、秀吉軍が三木城内の宮の上砦を攻撃、兵は本丸へ逃げ込む。

1月11日、秀吉は長治の叔父吉親が守る鷹ノ尾城(三木城の南)へ軍勢を向かわせると、防げないと判断した別所吉親は城を退き、三木城本丸へ逃げ込む。
秀吉軍が追撃すると本丸から兵が出て交戦となり、秀吉軍は本丸へ火を放つ。

1月15日、秀吉が降伏を勧告する。別所重宗(吉親の弟。謀反に反対して織田軍に入っていた)が城内へ勧告状を届ける。
「摂津の荒木村重や丹波の波多野兄弟のような最期を迎えては末代までの笑い者となり悔しいでしょう。ここは立派に腹を切るのが然るべきです。」

これに対し別所長治は、長治・友之・吉親の三人が切腹するのでその他の城兵は助けて欲しいと返答する。秀吉はこの返答に感銘し、酒二、三樽を城内へ届ける。

別所長治は17日に腹を切ると家族に伝えると、別所吉親はさらし者にさせないように城内に火を懸けるが、家臣が取り押さえて自害させる。

1月17日申の刻、別所長治は三歳の幼児を膝に乗せて刺し殺し、妻を引き寄せて殺害する。弟の友之も同じように妻を刺し殺す。
兄弟は広縁に出て家臣を集め、兵糧の尽きた中で籠城を成し遂げたことを称える。その後、長治が切腹(26歳)。長治を介錯した三宅治忠も切腹。友之は兄が使用した脇差で切腹する(25歳)。
吉親の妻は我が子の男子二人・女子一人を並べて刺し、自らも喉首を切って自害する。

【信長公記】

1580年2月、秀吉(織田信忠とも言われる)が別所氏を支援していた英賀城(城主 三木通秋)を攻撃、占領する。

1580年2月19日、長浜で秀吉が津田宗及と茶会を催す。【宗及他会記】

1580年2月21日、信長が上洛、妙覚寺に入る。
1580年2月24日、信長が京で鷹狩りを行う。2月26日、村井貞勝へ本能寺の普請を命じる。
1580年3月1日、信長が京から郡山、有岡城へ向かい検分を行い、道中鷹狩りをしながら3月8日京へ戻る。

北条氏政の使者が上洛
1580年3月9日、北条氏政の使者(笠原康明、間宮綱信、原和泉守)が上洛する。
滝川一益が出迎え、本能寺で鷹13羽・馬5頭などを献上する。

10日、信長が使者と面会。北条から太刀・白鳥徳利・あわび・江戸酒などが献上される。
朝廷への報告を滝川一益と牧庵が行う。

織田の武井夕庵、滝川一益、佐久間信盛が北条使者の言上を承り、縁談(信長の娘 慈眼院と氏直との婚約)が調えられ、関八州は織田分国として服属すると伝えられる。

笠原康明が氏政からの挨拶を、間宮綱信が氏直からの挨拶を申し上げる。
信長は使者に京都見物を勧め、金銀100枚を土産として渡す。
【信長公記】

1580年3月10日、秀吉が播磨の過半を制圧。諸将を休めるため長浜に帰還する。しかし20日、宇喜多直家より援軍要請の注進が入り25日、再び播磨へ出陣。閏3月2日に三木城へ入城する。

1580年閏3月5日、石山本願寺が和睦に応じる。
朝廷が仲介に入り、顕如が信長との和睦を受諾する。しかし息子の教如が強硬派とともに石山本願寺で籠城を続ける。

「この度[]、無事に調ったことにつき、当寺を信長へ渡すことになりました。数代の本寺聖人の御座を彼らの馬の蹄に汚される事、一層の無念で嘆かわしいばかりです。…ただひとえに法義相続をして仏法を退転しないようにと思います。」【閏3月7日付 末寺門徒宛 教如書状】
(この教如の抵抗を大坂拘様と呼び、以後本願寺が東西分裂するきっかけとなる)

1580年4月9日、顕如が大坂を退去すると届け出る。

<周辺位置関係>
近畿地方城マップ拡大

1580年4月、秀吉が播磨西北にある宇野氏の諸城を攻撃、次々に占領する。4月下旬に居城の長水城を包囲する。

1580年5月9日、秀吉が長水城を占領する。 その後北上し因幡へ侵攻、鹿野城を攻略する。
1580年5月16日、羽柴秀長が但馬 山名祐豊の有子山城を攻撃、占領する。秀吉家臣の宮部継潤が豊岡に入り、豊岡城を築城する。

1580年6月5日、秀吉家臣の蜂須賀小六らが長水城を脱出し宍粟郡に立て籠る宇野民部を追撃、播磨を制圧する。

1580年7月2日、花隈城に逃げた荒木村重を池田恒興が攻撃、勝利する。荒木村重は毛利輝元を頼り亡命する。

その後荒木村重は大坂で茶人として秀吉に仕え、利休七哲の一人となる。
「荒木は領国から追放された後、巡礼のように、人知れず日本の諸国を巡ったが、その後堺に戻り、剃髪して同市の市民となり、商人の娘と結婚した。彼は所持していた茶の湯の道具一個を6千クルサードで羽柴に売り、今では小姓のように彼のために茶を立てている。」【1584年1月20日付 フロイス書簡】

荒木村重は秀吉と対面した際、高山右近を褒める秀吉に、高山右近への非難を述べたことから追放される。さらに不満の言葉が秀吉の妻ねねに伝わったことから、殺されるのを恐れ家と妻を捨て寺院に入る。【1584年度日本年報】
(荒木村重は天正14年5月4日、堺にて死去(52歳))

石山本願寺開城
1580年8月2日、新門跡の教如が石山本願寺の明け渡しに応じ、石山合戦が終結する。
「雑賀・淡路島より数百艘の迎え船を寄せ、近頃まで守備していた端城の者は右往左往に、縁を頼りに海上と陸と、蜘蛛の子を散らすように散り散りに別れていった。
松明の火に西風が吹きかけ、多くあった寺院の建物は昼も夜も三日間、黒雲となって焼け落ちた。」【信長公記】

顕如、教如は紀伊の鷺森へ移る。その後両者が対立、教如は紀伊・美濃・越前などへ向かい流浪の身となる。
(2年後、本能寺の変が起きると教如は鷺森へ戻り和解する。その後、本願寺は秀吉により貝塚、天満、京都と寺基が移される)

紀伊では降伏に反発する土橋若大夫(守重)が信長派の顕如・鈴木孫一と対立、内部分裂が起きる。教如は反信長派として行動する。

その後信長は石山本願寺跡地に城郭を築く。

1580年8月、細川藤孝が光秀軍とともに丹後南部を制圧。信長から所領を与えられ、宮津城を築城する。丹後北部は一色満信(義定)が統治する。

1580年8月、信長が摂津・河内・大和の城の破却命令を出す。8月17日、筒井順慶が郡山一城を残し大和国の城を全て破却する。

1580年8月14日、信長が上洛する。翌未明、大坂へ出陣する。【兼見卿記】(【信長公記】には12日に大坂へ舟で向かうと記載)

佐久間信盛を追放
1580年8月、大坂に着いた信長は重臣の佐久間信盛と嫡男信栄へ折檻状を送る。

本願寺攻めの司令官として5年間よい働きがなかったこと、新領では家臣に加増せず欲深で金銀を蓄えたこと、姉川合戦では落度を咎めると口応えをしたことなどを咎め、父子共々高野山へ追放する。その後さらに山奥へ送る。

その後信長は京へ戻り、林秀貞、丹羽氏勝、西美濃三人衆の一人である安藤守就も追放処分とした。(【信長公記】には「子細は先年信長公御迷惑の折節、野心を含み申すの故なり」と記載)

佐久間信盛の追放により、筒井順慶・池田恒興・高山右近・中川清秀ら摂津衆が明智光秀の与力として編成され、光秀は畿内方面の司令官となる。

1580年8月21日、信長が細川藤孝へ、畿内の諸城の破却が終わったことを伝える。

1580年8月、秀吉が因幡 鳥取城(城主 山名豊国)を攻撃、降伏させる(第一次鳥取城攻め)。秀吉は因幡西部の鹿野城に亀井茲矩・赤井忠家・福屋彦太郎を入れ毛利への前線基地とした。【寛政重修緒家譜】

その後鳥取城主 山名豊国が毛利派の家臣らに追放される。※城を出た理由は諸説あり
吉川元春は牛尾元貞らを鳥取城主として入城させるが山名家臣から新たな城主を要望される。

1580年9月21日、坂本の明智秀満邸での茶会に明智光秀、津田宗及、三沢秀次、斎藤利三が参加する。【宗及他会記】

11月、柴田勝家が加賀一向一揆の本拠地である尾山御坊(金沢御堂)を制圧。加賀を平定する。尾山御坊跡に金沢城を築城、佐久間盛政が入る。

11月24日、長宗我部元親が秀吉に書状を送る。
大坂の牢人が紀伊や淡路の者を集め四国へ渡り勝瑞城を占領したが信長の朱印が出たらしいので攻撃しなかった、三好康長が近日讃岐へ到着し阿波へ下国してくること、淡路の和田氏が織田についたこと、我々が阿波・讃岐を平定できれば中国攻めの際は相当の協力を致すと伝える。【吉田文書】

12月20日、明智光秀が津田宗及、筒井順慶と茶会を催す。【宗及他会記】

1580年、伊勢の織田信雄は居城の田丸城の天守が火災により焼失したため、松ヶ島城へ移る。(以降本能寺の変まで居城となる)

1580年頃、宮部吉継(後の豊臣秀次。4歳から6歳まで宮部家に送られていた)が三好康長の養子となり、三好信吉と名乗る。※養子となった時期は本能寺の変後など諸説あり
(その後1584年の16歳の時羽柴家に復帰する)

1581(天正9)年1月8日、信長が安土城で津田宗及、山上宗二、松井友閑と茶会を催す。【宗及他会記】
1月15日、安土城西南の馬場で爆竹を行う。

1581年2月、佐々成政が越中半国を与えられ、富山城主となる。

1581年2月19日、織田信雄、信忠が上洛。妙覚寺へ入る。
2月20日、信長が上洛、本能寺へ入る。(昨年村井貞勝が本能寺の普請を完了している)

2月23日、信長が伴天連と面会、布教の許可を出す。
イエズス会の宣教師ヴァリニャーノ(通訳にフロイスが同行)が信長に謁見。このとき連れていた黒人奴隷を信長が気に入り、弥助と名付け小姓として供廻りにする。

<弥助に関する記録>

※【信長公記】
「年齢は二十六、七歳と見える、全身の黒いこと牛のようだ。この男は丈夫で元気、器量が良い。しかも剛力で十人にも勝る。」
※【家忠日記 天正10年4月19日条】
「上様(信長)が俸禄を与え、宣教師が進上した、黒い男をお連れしている。身体は墨のようだ。身の丈は六尺二分(約182.4cm)。名は弥助というそうだ。」
※【宣教師ロレンソ・メシア書簡】
「信長自身、彼を見て驚き、生まれつき黒いのであって墨による細工でないことを納得しなかった。たびたび彼を見、幾らか日本語を解したので彼と話して飽くことがなく、また黒人は非常に力があり、幾らかの芸ができたので信長は大いに喜んだ。今では彼を厚く庇護しており、その旨を諸人に知らしめるため、腹心の家臣一人を付けて市中を巡らせた」

1581年2月28日、信長は天皇の御前で織田軍数万による馬揃え(観兵式)をひらき、各地の武将が参列する。信長は華麗な出で立ちで馬場入りの儀式を行う。諸国から見物人が集まり、会衆は13万人となる。【信長公記】【フロイス 日本史】

姫路城普請のため観兵式に参加できなかった秀吉は、3月5日付の長谷川秀一へ手紙で、参加者の服装を教えてほしいと様子を聞いている。【富田文書】

1581年3月5日、正親町天皇の希望で再度馬揃えが行われ、500騎の軍勢が行進する。
3月10日、信長が安土へ帰城する。

1581年3月18日、鳥取城の城主として石見福光城主だった吉川経家が入る。吉川経家は戦に備え丸山・雁金山に砦を築く。しかし因幡の町では昨年より秀吉が兵糧を買い占めており城内は十分な食料が確保ができなかった。

1581年4月9日、明智光秀・息子の十五郎・明智秀満が、茶人の津田宗及・山上宗二、連歌師の里村紹巴らと丹後宮津へ向かう。
4月12日朝、細川藤孝・忠興とともに飾り船で天橋立を見物、その後連歌会を催す。【宗及他会記】

1581年4月10日、信長は小姓衆5、6人を連れ安土から琵琶湖の竹生島へ参拝へ向かう。信長はその日のうちに30里を移動して安土へ帰城する。しかし遠路のため長浜に泊まるだろうと思った女房衆は二の丸や桑実寺へ出かけており、これを見た信長は桑実寺へ女房衆を縛り差し出すよう伝える。長老は助けるよう詫びたが信長は長老共々成敗した。【信長公記】

1581年4月18日、明智光秀が亀山城の普請を行う。【片山家文書】

1581年6月2日、明智光秀が18条の「家中軍法」を定め、軍の規律と軍役の賦課基準を制定する。

一、武者は陣地において、役者以外の兵士は高声と雑談は禁止すること。付則、攻撃場所とその配置、鯨波(敵への威嚇)は命令に応じること。
一、先鋒部隊が指図するのは、旗本が到着してから命令に従うように。但し、先鋒の所で指示を出す場合は、事前に申し伝えておくこと。
一、自分の軍勢はそれぞれ前後を揃えて従わせること。付則、鉄炮・鑓・指物・のぼり・甲立雑兵に至っては、置き所を法度の通りにすべきこと。
一、行軍の時、馬乗者が後ろに遅れると、急な動きがあっても役に立たない。大変思慮の足りないことであり、早々に領地を没収する。付則、時によっては成敗を加える 。
一、旗本・先手がそれぞれ陣を定め置いた上は、足軽が懸かり合う一戦があったとしても、皆がその命令を守るように。もし陣を乱す者がいれば、誰でも粗忽として成敗を加える。付則、虎口の使者が目の前で各自へ申し伝えたとしても、報告後に返答するように。たとえその場で手柄を立てたとしても、法度に背いたその処罰は逃れられないこと。
一、軍の行動や陣替の時、陣取と言いながら抜け駆けで兵を出すことは、堅く禁止する。その場所へ至ってよく確認すること。但し、事前に詳細を命じられていた場合は仁着をするべきこと。付則、陣払いは禁止すること。
一、陣夫の計量は京都法度の器で三斗(300合)とする。但し遠方の夫役においてはニ斗五升(250合)とする。その食料は一人につき一日に八合を領主より与える事こと。
一、軍役の人数は百石で六人とする。この前後でも凖じること
一、百石から百五十石までは、甲一名(鎧を着た者一名)・馬一匹・指物一本・槍一本のこと
一、百五十石から二百石までは、甲一名・馬一匹・指物一本・槍ニ本のこと
(中略)
一、八百石から九百石までは、甲四名・馬四匹・指物八本・槍八本・のぼり一本・鉄砲四挺のこと
一、千石は、甲五名・馬五匹・指物十本・のぼりニ本・鉄砲五挺のこと 付則、馬乗り一人の着到は二人分に凖じること

また光秀は12月4日に「定家中法度」を制定する。織田家の宿老・馬廻りには道を空けてかしこまること、坂本丹波の往復には洛中を通らないこと、洛中での使者の騎乗禁止、洛中洛外での遊興見物の禁止、他家の衆との口論する者は成敗すると記した。

1581年6月12日朝、秀吉が姫路城に津田宗及を招き茶会を催す。【宗及他会記】

1581年6月12日、信長が香宗我部親泰(長宗我部元親の弟)に、阿波 岩倉城主の三好康俊(三好康長の嫡男)へ協力して統治するよう伝える。※年次不明(三好康俊は1579年に長宗我部へ服属したが、信長は阿波国を三好家に統治させる方針を示した)

1581年6月27日、能登 七尾城の旧畠山家臣 遊佐続光が再び上杉へ寝返ったため、北陸監査役の菅屋長頼が遊佐続光を処刑する。(一族を殺され恨みのある長連龍に殺害されたとも言われる)温井景隆・三宅長盛は越後へ逃亡する。

鳥取城の戦い
1581(天正9)年6月27日、秀吉が姫路城を出陣。羽柴秀長・黒田官兵衛・中村一氏・堀尾吉晴ら(兵数20,000)が因幡へ侵攻。7月12日、吉川経家が守る鳥取城(兵数1,400)に着陣、兵糧攻めを開始する。

海口にある補給のための出城を遮断、城を鹿垣(石垣)で取り囲み適所に各隊を布陣、堀や土塁を盛り、櫓を建て完全に孤立させる。後詰に備え後方も堀や土塁を築く。

8月13日、毛利輝元・小早川隆景・吉川元春の後詰が来るとの報せが入り、信長は細川藤孝・明智光秀・池田恒興を大将とし、高山右近・中川清秀らに出陣準備の指示を出す。輝元らが来れば信長自身も出陣すると伝える。
明智光秀と細川藤孝は家臣に命じ、船に兵糧を積み因幡の袋川へ停泊させる。細川藤孝は松井康之に担当させる。
8月20日、信長が秀吉に「油断なく戦うこと、南条元続が毛利の城を攻撃して攻略した」と伝える。

9月16日、吉川元春が海上から鳥取城へ兵糧補給に向かう。丹後から出陣した細川家臣 松井康之の水軍が吉川水軍を攻撃、撃退する。

10月、城内の百姓達は餓死に瀕する。
「初めのうちは五日に一度、三日に一度、鐘を鳴らし、それを合図に雑兵が柵際まで出て、草木の葉を切り取り、中でも稲株を美味しい物としていた。しかし後にはこれも尽きてしまい、城の牛馬を食べ、霜露に打たれ、弱い者が餓死していくのは際限がなかった。」【信長公記】

「急な戦であったため、十日か二十日の食料しか用意しておらず、程なくして飢えに苦しみ、飢餓の者は数えきれなかった。…柵を乗り越えて出ようとした者を、鉄砲で撃ち倒すと、まだ死なず息も絶え絶えな者を、男女がこぞって小刀や菜刀、あるいは鎌を手に持ち来て、関節を離し、肉を切り取った。」【甫庵太閤記】

吉川経家が協議を行う。「この急難を逃れることはできない。毛利家より救援しようとあった事も、度々偽りとなり、今は水のない魚のような身となった。…我々の命にかえて、多くの人々を助けようと思う。」

吉川経家が降伏を申し出、3大将の首のかわりに城中の助命を乞う。
10月25日、鳥取城が開城となる。吉川経家(35歳)・森下道祐・奈佐日本介が切腹する。

「十月二十五日、鳥取城の者は助け出された。あまりに不憫に思われ、食べ物を与えたところ、食に恵まれたが、過半の者は急死した。まことに餓鬼のように痩せ衰え、とても哀れな有様であった。」【信長公記】

<吉川経家の遺言状 吉川広家宛>
「私は鳥取城にご用に立ち、心中覚悟していたことは忘れておりません。日本の二つの弓矢(毛利・織田)の境で切腹に及ぶことは末代までの名誉と存じます。長年の特別な御芳情は忘れることはありません。従って賜った長光の刀は息子・亀寿丸へ遣わしてください。」

<吉川経家の遺言状 子供宛>
「鳥取のこと、夜昼二百日、こらえていた。しかし兵糧が尽き果ててしまったので、私一人がご用に立ち、各々を助け申し、一門の名を上げよう。その幸せな物語を聞いてほしい。」

信長は毛利水軍を撃退し羽柴軍へ兵糧補給を行った細川家臣松井康之の戦功を賞賛する。

1581年7月24日、昨年に追放処分とした佐久間信盛が大和の十津川で湯治中に死去(55歳)。【高野春秋編年輯録】【多聞院日記 8月19日条】
信長は息子の信栄を赦免、旧領を安堵する。【信長公記】

1581年8月、信長は高野山へ匿っている荒木村重の旧臣2名を差し出すよう使者を送るが、高野山側は使者10名を殺害する。これを聞いた信長は17日、高野聖数百名を捕らえ安土城にて処刑する。

1581年8月7日、奈良興福寺では、近日中に明智光秀が興福寺へ来ると伝わり騒ぎになる。光秀は目を患い灸で治療すると知らせが届く。【多聞院日記 8月7日条】

8月中旬、明智光秀の妹ツマキが死去する。「去七日・八日ノ比歟、惟任ノ妹ノ御ツマキ死了。信長一段ノキヨシ也。向州無比類力落也。」【多聞院日記 8月21日条(原文)】

8月19日、光秀が大和郡山城の普請を視察する。【多聞院日記 8月19日条】
8月21日、光秀が夜明けに大和から帰る。【多聞院日記 8月21日条】

1581年8月17日、前田利家が能登一国を与えられ七尾城へ入る。翌年小丸山城を築城して居城とする。(2年後、加賀の金沢城へ移る)

第二次天正伊賀の乱
1581年9月、織田信雄(兵数40,000)が再び伊賀へ侵攻する。

甲賀口より織田信雄・滝川一益・蒲生氏郷・丹羽長秀・京極高次・阿閉貞征・阿閉貞大ら
信楽口より堀秀政・永田刑部少輔・山岡景宗ら
加太口より滝川雄利・織田信包
大和口より筒井順慶

伊賀衆の主力である比自山城、平楽寺(伊賀上野城)を攻撃する。
壬生野城、河合城、木輿城まで制圧、大和国境へ逃げた伊賀衆は筒井順慶が追撃して討ち取る。平楽寺では住民も含め3万人が殺害される。

平定後、信長は伊賀3郡は信雄、残り1郡は信包に統治させる。

1581年9月、鳥取城包囲中の秀吉に、阿波 三好家臣の篠原自遁から注進が入る。秀吉は勝瑞城に仙石秀久、木津城に生駒親正を送ること、黒田官兵衛には志智城に入ることを命じる。
※官兵衛の淡路国派遣は【黒田家文書】の年次不明の史料のため天正8年や10年の説もある

1581年10月9日、信長が信忠、信澄とともに伊賀国へ入り検分を行う。滝川一益、織田信雄、堀秀政、丹羽長秀らが信長の御座所を建てて食事でもてなす。

1581年10月、高野大衆が一揆を起こしたことで織田信張(岸和田城主)が高野山へ侵攻。戦闘は本能寺の変まで続く。

1581年10月26日、鳥取城の戦い後、伯耆の羽衣石城(城主 南条元続)が吉川軍に包囲されたと注進が入る。
11月4日、秀吉は宮部継潤へ国掟を与える。宮部継潤に鳥取城と八東郡などを与えて因幡国を統治させ、支城には亀井菰矩・垣屋光成・木下重堅を配置する。

その後秀吉は羽衣石城へ救援に向かい、吉川軍を攻撃して勝利する。
羽衣石城・岩倉城へ兵糧と弾薬を十分に補充し11月8日、秀吉軍は退却、姫路城へ帰還する。吉川元春も戦闘を行わず兵を引く。

1581年11月17日、羽柴秀吉・池田元助が淡路島北端の岩屋城(毛利方の国衆 菅達長)、由良城を攻略し淡路国を平定。20日、淡路国に仙石秀久・生駒親正を置き秀吉は姫路城へ帰還する。(淡路島は毛利水軍が拠点としていたが、本願寺滅亡後は安芸へ撤退していた)

1581年11月、下野の皆川広照が信長に名馬3頭を献上、また堀秀政にも馬を贈る。

12月、秀吉が安土へ上り、歳暮の祝儀として多数の品物を進上する。信長は因幡平定を讃えた感状を与え、名物茶道具12点を褒美として与える。【信長公記】
秀吉は今井宗久へ8品の名物茶器をいただいたと伝える。【小林文書】
秀吉は茨木城で茶会を催した後、姫路城へ帰還する。

1581年、日本でのキリシタン人口は15万人(うち九州が11万5千人)となる。【1581年度日本年報】

1581年、信長が紀伊 堀内氏の所領(相賀~新宮)を安堵。

<徳川家>

1580(天正8)年10月、第二次高天神城の戦い。徳川軍が高天神城(城主 岡部元信)を包囲する。

高天神城の岡部元信は降伏を伝えるが、家康が信長に指示を仰いだところ降伏はさせないようにと伝えられる。

1581(天正9)年3月22日、高天神城内の兵は多くが餓死しており、残った兵が城外へ攻撃する。
石川数正・松平家忠、足軽衆など130名が討たれる。【家忠日記】
徳川家が残兵を討ち取り、高天神城を落城させる。

1581年11月12日、家康が信長に馬を献上した下野の皆川広照へ手紙を送り、信長の指示で帰路の道中の使者をもてなしたこと、また信長への忠誠を讃える。

<武田家>

1580(天正8)年3月、武田勝頼は北条の沼田城攻略を開始。真田昌幸の調略により沼田城支城の小川城、猿ヶ京城、名胡桃城を占領する。

1580年5月、滝山城の北条軍が甲斐都留郡へ侵攻、攻撃を受ける。(甲斐国で初めて敵の侵攻を受ける)

1580年8月下旬、真田昌幸が沼田城主 藤田信吉を内応させ、沼田城を占領。
勝頼は沼田城に藤田信吉・海野輝幸・金子泰清、岩櫃城を海野幸光を配置する。

1580年9月、勝頼が上野 金山城(城主 由良国繁)、館林城を攻撃。佐竹義重、宇都宮国綱、結城晴朝らも武田との共同作戦に応じ、北条の下野 小山城を攻撃。
その後勝頼は氏政の出陣を待っていたが、氏政は動かず、10月に勝頼は上野から撤退する。

1580年10月、第二次高天神城の戦い。徳川軍に高天神城(城主 岡部元信)を包囲される。
(勝頼が援軍を送らなかった理由は、北条軍に備えていたため、家臣が信長を怖れて反対した、などの説がある)

1581(天正9)年、新府城の築城を開始。

高天神城の岡部元信は降伏を伝えるが、家康が信長に指示を仰いだところ降伏はさせないようにと指示を出す。

1581年3月22日、高天神城内の兵は多くが餓死しており、残った兵が城外へ出て交戦するが敗北、落城となる。
(勝頼が援軍を出さなかったことで家臣が離反する原因となり、以降武田家は弱体化する)

1581年3月、旧沼田城主の沼田平八郎景義が金山城主 由良国繁の支援を受けて沼田城を攻撃。金子泰清(沼田平八郎景義の叔父)が城内へおびき寄せ、景義を討ち取る。

12月、勝頼が躑躅ヶ崎館から建築中の新府城へ入る。

<北条家>

1580(天正8)年3月10日、武田・佐竹の共同侵攻を受け、信長に臣従することを決める。氏政は信長に使者を送り、献上儀礼を行う。信長から関八州を認められる(服属扱いとなる)。

1580年5月、滝山城の北条氏照が家臣に甲斐へ侵攻させ、戦果を上げる。

1580年8月下旬、武田軍の真田昌幸に沼田城を奪われる。

1581(天正9)年、佐竹軍の侵攻により由良国繁、長尾顕長が佐竹につく。
1581年、北条氏照が下野 唐沢山城(城主 佐野宗綱)を攻撃するも撤退。

<上杉家>

1580(天正8)年4月、御館の乱で景虎方についていた栃尾城(本庄秀綱)を落城させる。本庄秀綱は逃亡、葦名氏を頼る。
また三条城(神余親綱)を攻撃、神余親綱は離反した家臣に殺害される。6月、御館の乱が終結する。

1580年10月、景勝が越中に出陣、織田方の小出城を攻撃する。

1581(天正9)年3月24日、織田勢の侵攻を防ぐ重要拠点の松倉城では城主 河田長親が病死する(39歳)。上杉景勝は松倉城へ上条宜順(景勝の義兄)を配置する。

1581年6月27日、能登 七尾城の旧畠山家臣 遊佐続光が再び上杉方につくが、織田家北陸監査役の菅屋長頼が遊佐続光を処刑する。(一族を殺され恨みのある長連龍に殺害されたとも言われる)温井景隆・三宅長盛は越後へ逃亡する。
その後8月に前田利家が七尾城へ入る。

1581年10月上旬、新発田重家の乱。御館の乱後の論功行賞に不満を持った揚北衆の新発田重家が、信長の調略により謀反を起こす。蘆名氏も織田に協力したため、景勝は南北から攻撃を受ける。(鎮圧は1587年)
この頃景勝は越中方面で織田の侵攻に備える必要があったため、新発田重家は新潟津、沼垂津まで支配下に置く。

1581年11月、春日山城内で刃傷事件が起き、家臣の毛利秀広が重臣の山崎秀仙、直江信綱を殺害する。
直江家は跡継ぎがいなかったため、景勝が取り立てていた側近 樋口与六が養子となって直江兼続と名乗り、家督を継ぐ(21歳)。直江兼続は与板城主となる。
山崎秀仙の死後は直江兼続、狩野秀治が内政・外交を担当する。

<伊達家>

1581(天正9)年、相馬領の小斎城(佐藤為信)が伊達に寝返る。

<真田家>

1580(天正8)年3月、真田昌幸が調略により沼田城支城の小川城、猿ヶ京城、名胡桃城を占領する。

昌幸は沼田城主の藤田信吉の内応に成功。沼田城攻撃時に決起するよう調略をかける。
1580年8月下旬、矢沢頼綱(昌幸の叔父)が沼田城を攻撃。内応していた藤田信吉・金子泰清が沼田城を開城させる。

1581(天正9)年1月、真田昌幸が新府城の普請に加わる。

1581年11月21日、岩櫃城代の海野兄弟と真田昌幸が吾妻領の支配を巡り対立。真田昌幸は海野兄弟を討伐する。【加沢記】

<毛利家>

1580(天正8)年3月13日、小早川隆景が備前に侵攻、辛川で宇喜多忠家と戦闘、敗北する。

1580年5月、昨年より織田方についた伯耆の南条元続へ攻撃を行う。吉川元春が岩倉城(城主 小鴨元清、南条元続の弟)を攻撃するが敗退。(1582年に再度攻撃し占領する)

1580年8月、石山本願寺が降伏。

信長侵攻の防波堤としていた宇喜多氏の離反、調略が成功した荒木・別所の敗北、秀吉による但馬・因幡への侵攻、さらに本願寺の降伏によって織田包囲網が崩壊し、毛利の対信長戦略が劣勢となる。

1581(天正9)年2月、吉川経家を鳥取城主とすることを決定。
山陰方面を管轄する吉川元春は南条元続の離反を受けて毛利の兵力を山陽と山陰の南北に分けることを断念、但馬・因幡を見捨てる戦略を選択する。【小早川家文書】
吉川経家はそのような情勢の中、鳥取城の守備に入る。

吉川経家は兵糧を集めるが、すでに因幡国内の米は秀吉が高値で買い占めており長期戦への備えはできなかった。

1581年6月27日、鳥取城の戦い。秀吉による兵糧攻めが行われる。10月24日、吉川経家が自害、落城する。
南条元続は秀吉の鳥取城攻めに加担し、羽衣石城に籠城して後詰の吉川元春を防ぐ。

1581年、毛利軍が宇喜多領の忍山城を攻撃、落城させる。

<宇喜多家>

1580(天正8)年3月13日、小早川隆景が備前に侵攻、辛川で宇喜多忠家が戦闘、勝利する。

1581(天正9)年、毛利軍が宇喜多領の忍山城を攻撃、落城する。

<長宗我部家>

1580(天正8)年1月、昨年12月に岩倉城で敗れた三好存保は勝瑞城を捨て讃岐の十河城へ撤退する。その後長宗我部軍が十河城・羽床城を攻撃する。

1580年11月24日、長宗我部元親が秀吉に書状を送る。大坂の牢人が紀伊や淡路の者を集め四国へ渡り勝瑞城を占領したが信長の朱印が出たらしいので攻撃しなかった、三好康長が近日讃岐へ到着し阿波へ下国してくること、淡路の和田氏が織田についたこと、我々が阿波・讃岐を平定できれば中国攻めの際は相当の協力を致すと伝える。【吉田文書】

1580年、香宗我部親泰が阿波東部へ侵攻。三好領の牛岐城を攻撃、城主 新開実綱が降伏する。

1581(天正9)年3月、三好康長が阿波へ入る。(【讃岐国大日記】によると三好康長は岩倉城へ入り嫡男 康俊を離反させ織田方へつかせた。)

1581年6月12日、信長から香宗我部親泰(長宗我部元親の弟)へ、阿波 岩倉城主の三好康俊に協力して統治するよう伝えられる。※この記録は年次不明(三好康俊は1579年に長宗我部へ服属していたが、信長は阿波国を三好家に統治させる方針を示した)

1581年7月23日、東伊予の金子元宅と同盟を結ぶ。

1581年8月、毛利と同盟を結ぶ。【8月7日付 乃美兵部丞宛 長宗我部元親書状】(元親は四国を支配しようとする信長を離れ毛利と同盟を結んだ)

1581年11月、羽柴秀吉が淡路島を平定する。

<龍造寺家>

1580(天正8)年2月、蒲池鎮漣が反旗を翻し、柳川城に籠城。龍造寺軍が攻撃するも落城せず、一時講和を結ぶ。

この頃、有馬氏の諸城を次々に離反させる。

1580年4月、筑前 鷲ヶ岳城を占領。
1580年7月、筑前 安楽平城を占領。その後博多へ侵攻し、博多の町を焼き討ちにする。

1580年、龍造寺信周が博多から豊前侵攻を開始。大友氏と対立する秋山氏の高橋元種が居城である馬ヶ岳城へ龍造寺信周を入れ、豊前の国衆も龍造寺に従う。

1581(天正9)年、龍造寺軍が肥後へ侵攻。
1581年3月、阿蘇氏の御船城主 甲斐宗運、城氏の隈本城主 城親賢を服従させる。
1581年4月、赤星氏の隈府城主 赤星統家を服従させる。

北肥後の合志氏から服属の起請文を受け取る。これにより北肥後を支配下に置く。龍造寺軍は天草諸島へも侵攻する。

1581年5月、蒲池鎮漣が島津と通じたことから、調略を行う。和平締結のためと称し佐賀城に呼び寄せ、殺害する。(直前に大村純忠を呼び寄せてもてなし、蒲池鎮漣を安心させていた)
蒲池鎮漣は襲撃を受け自害、蒲池氏一族も殺害する。
その後龍造寺隆信は鍋島直茂に命じ、蒲池鎮漣の柳川を占領する。

<大友家>

1580(天正8)年、家臣の田北紹鉄が反乱を起こす。隠居していた宗麟が出陣、反乱を抑える。

1580年9月、信長が九州に近衛前久を派遣。信長の安芸出陣のため島津と和睦をすること、異議ある場合は敵を見なすことを伝えられる。

1581(天正9)年、大友宗麟が豊前彦山の三千坊といわれる坊舎(僧が住む住居)を焼き討ちにし、仏教徒を追い払う。

1581年7月、立花道雪(戸次鑑連)の娘 ぎん千代の婿として立花宗茂(高橋紹運の嫡男14歳)が立花山城に入る。

<大村家>

1580(天正8)年4月27日、龍造寺との戦いでイエズス会から戦費の支援を受けていたキリシタン大名の大村純忠が、イエズス会と寄進状を交わす。

長崎・茂木の土地を教会領として寄進すること、死刑を含む裁判権を与えること、入港税・停泊税を与えること、物品輸入税を保留することが決まる。
これによりイエズス会は関税以外の権利を手に入れ、治外法権を持つことになる。砦を築き大砲を配置して村のキリシタンに銃を与えて長崎を支配する。
(イエズス会による長崎占領は1587年秀吉による九州征伐まで続く)

<島津家>

1580(天正8)年、島津家は隈本城の城親賢へ援軍を送り、相良氏、阿蘇氏と対立する。
島津家から龍造寺隆信へ相良氏の支援を止めるよう書状を送るが、龍造寺隆信は拒否、肥後国中(肥後北部)は龍造寺領であると伝える。

1580年9月、信長が九州に近衛前久を派遣。島津義久は大友家と和睦すること、翌年信長自身が安芸に出陣するので大友家とともに協力するようにと伝えられる。

1580年12月、相良氏と一時和睦が成立。隈本に送った兵を撤退させる。

1581(天正9)年2月、肥後へ侵攻。相良氏の水俣城を攻撃。
1581年8月、島津義久・義弘・歳久・家久の大軍で水俣城を攻撃、相良義陽を降伏させる。

1581年12月、島津義久は相良義陽に、阿蘇氏を攻撃するよう命じる。(相良義陽と阿蘇氏の家臣 甲斐宗運は親友の仲)
響野原の戦いで相良軍は甲斐宗運の軍勢に敗退、相良義陽は討死する。

島津軍は相良領の八代城を占領する。

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