戦国時代勢力図と各大名の動向ブログ

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康など戦国武将の年表と勢力地図まとめ

1582年(後半) <西国> 中国大返しと山崎の戦い

戦国時代1582年の勢力図
更新日 2018/8/9
<織田・豊臣家>

本能寺の変後の動き

本能寺の変で信長を討った明智光秀が近江制圧を進める。焼き落とされた瀬田橋を復旧させ明智軍が進軍する。

若狭の武田元明は本能寺の変を知ると明智方につき、佐和山城を占領、また武田元明の義兄 京極高次も明智方につき、阿閉貞征・貞大父子とともに長浜城を占領する。
(長浜城にいた秀吉の母なかと妻ねねは地侍 広瀬兵庫助の協力により保護される。【甲津原文書】)

安土の町が混乱状態となる。
「安土の市はこの時、最後の審判の日を示したようであった。人々のある者は一方向に避難し、他の者は別の場所に身を寄せており、婦女の声、子供らの泣き声、男たちの叫びなど、民衆の混乱と狂気の沙汰は慨嘆すべきものがあった。」【フロイス日本史】

<周辺位置関係>
本能寺の変-京都周辺地図

1582(天正10)年6月5日、光秀が安土城へ入城。長浜城には家臣の斎藤利三、佐和山城には山崎片家を配置する。
安土城の金銀財宝を接収、家臣や周辺の寺院に奉納を行う。

「貴人にはその位に応じて、また身分の低い者には彼の好みに従って黄金を分配した。幾人かの身分の高い人々にそれぞれ、黄金1千両、すなわち7,000クルサードを与えた。
信長の葬儀を盛大に行うために(禅宗の)各僧院に7,000クルサードを贈った。都の住民、ならびに同地にいた彼の友人たちには多数の黄金や価値ある品々を贈った。」【1582年日本年報追信】

大和国では6月3日、国衆が大安寺などに集結。4日、筒井軍の南方衆・井戸氏の一手衆が光秀のもとへ出陣するが、翌日に引き返す。「軍勢が早くも引き返した。信孝と申し合わせをしたか。」【多聞院日記】
6月5日、「先日山城へ向かった軍勢は今日近江へ進軍、光秀と手を合わせた。筒井順慶は堅く光秀と一味になっているらしい。」【多聞院日記】

伊賀国では織田信雄の兵が城を開けて逃亡、牢人衆が城へ入る。【多聞院日記】

丹後国の細川家へ光秀の使者が来る。使者は細川忠興へ軍勢を連れ急ぎ上られるようにと伝えるが、忠興は今回は命を助けて返すが、重ねて参れば誅伐すると返答する。【細川忠興軍功記】
細川藤孝は本能寺の変を聞くと出家し、細川幽斎と名乗り田辺城に隠居する。嫡男 細川忠興は妻の玉(光秀の娘、後の細川ガラシャ)の身を案じ丹後味土野の山中へ幽閉させる。

大坂では6月5日、織田信澄(光秀の娘婿。信長の弟信勝の息子)が殺害される。
織田信孝が丹羽長秀の助けを借りて大坂へ入り、信澄を殺害する計画を実行する。両者の間で揉め事が起きたように装い、敗れた丹羽長秀の兵が大坂城内へ逃げ込むように振る舞い侵入する。織田信孝の兵も続いて城内へ押し入り、その際本丸を攻撃する。これにより信澄は自害する(または討死)。【フロイス日本史】

備中高松城では5月からの水攻めが続く。
城主の清水宗治は兄の宗知(月清入道)へ降伏を相談する。宗知も賛同して弟の難波宗忠、末近信賀へ伝える。
清水兄弟が6月3日昼頃、蜂須賀正勝・杉原家次へ使者を送る。

「謹んで我らの考えを申します。…当城の運命はいよいよ終わりが近づいています。清水兄弟、難波伝兵衛尉(難波宗忠)、近松左衛門尉(末近信賀)が人々の命に代わり切腹いたします。憐みの心をもって籠城の者へ寛大な仁徳を施され、悉くお助けくださればかたじけなく存じます。よってお返事次第、明日の四日中に切腹に及びます。そこで小船一艘と美酒佳肴をくだされば、籠城の苦しさを忘れ、老兵の疲れを癒やすことができると存じます。」【甫庵太閤記】

秀吉は申し出を受諾。6月4日、清水宗治・宗知、難波宗忠、末近信賀が船の上で自害する。

備中高松の秀吉のもとへ本能寺の変の報せが届く。
「六月三日夜半頃、密かに注進が有った。…高松城からは大将五、六人の切腹と残りの同志を助けて欲しいと降参があり、毛利家も以前から五ヶ国(備中・備後・美作・伯耆・出雲)進上と起請文を添えた人質を出すこと、家を存続するよう懇願があった。
秀吉は毛利家を根絶やしにするつもりだったが速やかな収束を選択、清水兄弟と加勢に来た三名を切腹させ城兵を助けた。家臣の杉原家次が検使として城の請取りを行なった。毛利軍の陣払いの後、六月六日未の刻(13~15時)に備中を引き上げ沼城に至った。」【惟任退治記】

※【萩藩閥閲録】「四日巳の刻、清水宗治と兄月清、家来四名が乗船し切腹」
※【大日本史料】6月8日付毛利輝元書状(読み下し)「羽柴和平の儀を申すの間、同心せしめ無事に候、まずもって互いに引き退き候」
※【別本川角太閤記】「怪しい者を捕らえると小早川隆景宛の光秀書状だった」

吉川元春、小早川隆景らは秀吉を追撃して失敗すれば次こそは毛利家が滅ぼされるとして見逃した。【吉川家文書】

中国大返し

総移動距離<約210km>

6月6日 高松~沼 <23km> 
※「野殿まで打入った処、御状を拝見した。今日(5日)は成り行き次第で沼まで通る。…上様(信長)と殿様(信忠)は明智の襲撃を切り抜け膳所ヶ崎(大津)まで退かれた。」【6月5日付 中川清秀宛 羽柴秀吉書状 梅林寺文書】(信長が生きていると嘘を伝えたこの書状では5日に移動したと書かれている)

6月7日 沼~姫路 <70km>(2日行程と思われる)
※「七日大雨疾風、洪水を凌ぎ姫路に至る二十里をその日に着陣」【惟任退治記】
※6月8日杉若無心(秀吉側近)が細川家臣松井康之へ「去六日に姫路に至る、秀吉が馬を納れられた、…九日に悉く出陣する、なお昨日先に軍勢を出し帰っている」【松井家譜】

※後の9月20日に秀吉が秋田愛季へ本能寺の変から清須会議までの情勢を伝える。「備中高松包囲中に京の注進、五日まで対陣、七日に播磨姫路へ打入、九日に京へ切上…」【秋田家文書】

6月8日 姫路滞在
6月9日 姫路~明石 <35km>
※「諸卒揃わずといえども九日姫路を立つ、昼夜のさかいなく、人馬の息を休めず尼崎に至る」【惟任退治記】

6月10日 明石~兵庫 <20km>
6月11日 兵庫~尼崎 <25km>
※「十一日の辰の刻に尼崎へ着陣」【10月18日付 (信孝家老)斎藤利堯・岡本太郎左衛門宛 羽柴秀吉書状 金井文書】(以下【秀吉書状 金井文書】)

6月12日 尼崎~伊丹~富田 <28km>
※「播磨より羽柴摂津有岡城入城あり」【宇野主水日記】(有岡城主は池田元助)
※秀吉は織田信孝を待つため富田に一晩陣を置く。13日昼、秀吉が信孝を迎える。【秀吉書状 金井文書】

6月13日 富田~山崎 <10km>
※「光秀は秀吉が毛利攻めの間に摂津を抑え播磨へ乱入し、毛利に敗れる秀吉を討ち果たすと軍議するも、すでに秀吉が富田に着陣と聞き一戦を覚悟した。秀吉勢は遅れた兵が多く一万余名に過ぎないが精鋭たちであり他に織田信孝・丹羽長秀・堀秀政ら摂津の軍勢が加わる」【惟任退治記】

※参考例)1600年9月1日~11日、徳川家康(兵数3万)は江戸~清須間<約350km>を11日間で移動している
※6月13日は信孝を出迎えに淀川方面へ移動したとあり移動距離は10km以上となる。

6月5日、秀吉は中川清秀、高山右近らに信長・信忠は御無事、攻撃を切り抜け退避したとの嘘の書状を送り、光秀につかないよう画策する。【梅林寺文書】

北陸方面の動き
3月から柴田勝家・佐々成政・前田利家・佐久間盛政が越中の魚津城を攻撃。6月3日、落城させる。

「魚津城を四方より攻め寄せる。城兵が話し合うには、たとえ防戦しても景勝公はすでに馬を収められ、再度の出馬も間がない。そのうえ兵糧も絶え力戦も叶わず、然る後は敵に生け捕られ武名を汚すのも口惜しい。各一同腹をかき切って名を後世に残そうと言う。それぞれが尤もと一決し、板札に姓名を書き、耳輪に穴を空け、姓名札を結びつけてそれぞれ腹十文字にかき切って同じ枕に死んだ。忠死した者は中条景泰、竹俣慶綱、吉江信景(以下12名)である。」【上杉家御年譜】

5日に宮崎城を攻略した柴田勝家のもとへ、6日、本能寺の変の報せが届く。
前田利家、佐々成政と話し合い、柴田勝家は越前へ撤退、9日に北ノ庄城へ帰城する。【6月13日頃 柴田勝家書状】
佐々成政は富山城に入り守備を固める。

6月8日、上杉景勝が家臣の色部長実へ、上方で凶事があり織田諸将は悉く敗軍になったと伝える。【上杉家御年譜】

海津城から越後の春日山城へ進軍していた森長可は6月6日に本能寺の変の報せが届き、8日に領国の美濃へ撤退する。24日、居城の美濃金山城へ帰還する。その後家臣の離反が相次いだため、東美濃で諸城の攻撃を続ける。

同時に春日山城へ進軍していた滝川一益も上野厩橋へ引き返す。

魚津城を攻撃した前田利家は能登 小丸山城へ引き返す。
しかし本能寺の変を知った旧畠山家臣(温井景隆・三宅長盛)が挙兵、天平寺の宗徒とともに石動山に布陣する。
前田利家は金沢城から救援に来た佐久間盛政とともに攻撃、荒山で温井景隆・三宅長盛を討ち取る。

この頃、光秀は高山右近が西国へ出陣した後の高槻城へ使者を送り、高山右近の妻へ城はあなたのものだと伝える。右近の妻や家臣は偽りの返事を行い、光秀はこれに喜び人質を取ろうとしなかった。「明智は勘違いして、右近殿は中国から帰って来れば自分の味方になるに違いないと考えていた。」【フロイス日本史】

この後、高山右近が高槻城へ帰還する。

「ジュスト(高山右近)が高槻に帰着するとキリシタンたちは皆生き返ったかのように見え、ただちに彼は自ら明智の敵であることを公言し、出来得る限り迅速に城を整えて信長の第三子三七殿(信孝)および毛利の征服者羽柴殿と手を結んだ。
…ただし、三ヶ殿(三箇城主 三箇頼照)は明智が河内国の半分と兵士に分与するための黄金を積んだ馬一頭を約束していたので彼の側に立った。」【1582年日本年報追信】

6月7日、吉田兼見が勅使として安土城へ登城。朝廷からの贈物を光秀に渡す。光秀は吉田兼見にこの度の謀反の存分を雑談し、まだ蒲生賢秀が挨拶に出仕していないと話す。【兼見卿記(別本)】※後に書かれた正本では「雑談」は削除された

6月8日、美濃では本能寺の変後、稲葉良通(一鉄)が北方城を占領した安藤守就と交戦、美濃安藤氏を滅ぼす。

6月8日、光秀が安土城を出陣。安土城の守備には明智秀満を配置する。

「彼はいずこにも火を放たなかったが、重臣(明智秀満)を一人、幾らかの兵と共に同所に残して彼は予期していた戦を始めるため、(安土に到着してから)2、3日後、都と境を接する河内国と津の国(摂津国)へ引き返した。

この時、安土山では略奪が行われ、家々を荒らして家財を盗み、路上では追い剥ぎを働くことのみが横行していたが、このことは同所ばかりでなく堺の市から美濃国および尾張国まで道程にして6、7日の所でも同様であり、ここかしこで殺人が行われた。

…イエズス会が当地方に有する家財や装飾品の大半が同所(安土)に集められ、神学校の求めに応じたあらゆる物が十分に備わっていた。 …盗まれたものは2,800クルサード以上に値し、運び出せなかった柱と屋根以外には何も残らなかった。」【日本年報1582年追信】

6月9日未の刻(13~15時)、光秀が上洛。吉田兼見が出迎えて同行する。上京・下京の諸家や地下人が出迎えるが光秀は礼は堅く不要と伝える。
光秀は吉田兼見邸に入り、両御所への銀子500枚を献上する。京都「五山」と京都大徳寺へは銀子100枚を奉納する。吉田兼見邸で夕食後、光秀が出陣する。【兼見卿記(別本)】

6月9日、光秀が細川忠興へ書状を送る。

「一、御父子が元結を切ったことに一旦は腹が立ちましたが、よく考えるとこのようにあるべきかと思います。しかし、この上は大身(身分ある家臣)を出されて、入魂を望みます。

一、国の事は内々に摂津国を与えるつもりで上洛を待っていました。但馬・若狭を求めるなら同様に与えます。不都合があっても必ず申し付けます。

一、我々が不慮の儀を思い立ったのは忠興を取り立てるためで他の理由は全くありません。五十日、百日のうちには近国を固め、それ以後は十五郎(光慶)・与一郎殿へ引き渡し、何事も関わりません。」【細川家文書】(※偽文書とする研究有り)

「光秀は信長公の御父子を殺し、長岡父子へ "急ぎ着陣ありて、何事もよきにお計らいください" と飛脚を何度も送り、摂津国は幸いに領主がいないので知行しますとの旨を固く知らせた。しかし一向にそれには組みせず、むしろ弔い合戦の軍勢に加わりたいと秀吉へ急ぎ書状を送った。」【甫庵太閤記】

6月9日、姫路から明石へ移動している秀吉が、淡路国の国衆 広田蔵之へ洲本城攻略の協力を求める。(淡路国では明智方についた国衆 菅達長が洲本城を占領していた。その後洲本城の攻略に成功、菅達長は脱出して四国へ入り、香宗我部親泰の与力となる)

6月9日、大和国の筒井順慶が派兵を延期、籠城の準備を始める。「今日河内へ筒井軍が出陣するところ、延期となった。また郡山城へにわかに塩米を運び入れた。覚悟が変わり不審である。」【多聞院日記】
6月10日、「先日山城へ向かった筒井軍が昨今引き返してきた。秀吉が近日に上ることが決まったことで覚悟が変わったらしい。」【多聞院日記】

<周辺位置関係>
京都周辺マップ

6月10日、光秀が京から南下、洞ヶ峠に布陣し筒井順慶を待つ。【蓮成院記録】
和議に成れば順慶に六ヵ国を与え、自身の子を養子にする約束を伝えた。【老人雑話】
信孝・丹羽長秀を討ち果たすべく、筒井順慶へ使者を出したところ軍勢を出すと申したので洞ヶ峠にて一日二夜野陣した。【細川忠興軍功記】

6月10日、光秀が筒井順慶のもとへ使者を派遣。順慶は味方せず、秀吉へ起請文を送る。
「光秀より使者藤田伝吾が来た。同心しない返事を伝え、昨夜山城国木津まで帰るところを順慶が呼び返した。いかが心苦しいことか。秀吉へはすでに別儀無しとの誓紙を遣わせた。」【多聞院日記】

「彼(光秀)は8,000から10,000の兵を有していたが、摂津の国の軍勢が味方につかないのを知って数ヶ所の城を包囲することにし、徐々に高槻に迫っていった。」【フロイス1582年度年報】

6月11日、光秀が洞ヶ峠を引き取り、再び北の下鳥羽へ布陣する。合戦に備え淀城(淀古城)を普請する。【兼見卿記】

光秀のもとに秀吉が向かっているとの報せが入り、桂川を越え戦に備える。
「太閤にも明智にも特に親しかった施薬院全宗(医者)はこの時、太閤の見舞いで西国にいたが、上って下鳥羽の明智の陣所へ寄って、"筑前守はこれを聞いて早くも上洛するので時間はありません"と伝えると、明智は慌ててその夜しきりに雨が降っていたが、桂川を無理に越したので鉄砲玉薬が濡れて役に立たなくなった」【老人雑話】

6月12日、秀吉が摂津に入り中川清秀・高山右近・池田恒興と合流、軍議を開く。中川清秀と高山右近が先鋒を争い、秀吉は両人に先陣を命じ、山崎に布陣させる。
秀吉本隊は南西にある天神馬場(高槻にある上宮天満宮への参道)に到着し、秀吉は信孝を待つため富田で一晩過ごす。
【秀吉書状 金井文書】

6月12日、「光秀の敵か、山崎から軍勢が進出した。勝龍寺の西に足軽が出て、鉄砲隊もいる、この近辺を放火している」【兼見卿記(別本)】※後の正本では「光秀の敵」を削除

6月12日、光秀が雑賀衆の土橋重治へ返書を送る。
「まだご挨拶していないところですが、上意(足利義昭の命令と思われる)への協力に感謝します、御上洛の事はお請けしているので協力されることが大切です。そちらと入魂するのはめでたく、高野山・根来・雑賀衆で和泉、河内に出陣するのはもっともです、近江・美濃は悉く平定するよう命じています。」【森家文書】

6月13日昼、秀吉が大坂から淀川を越えた織田信孝を出迎える。
「次の十三日の昼頃、川を越えられたので、私もお迎えに馳せ向かい、お目にかかると、お涙を落とし、私も大声で泣きました。」【秀吉書状 金井文書】

6月13日、秀吉・丹羽長秀が大和郡山の筒井順慶に書状を送る。「今日信孝様が川を越され、高槻方面に陣取された。明日は西岡方面へ陣替えされる予定なので、それを理解され、そちらの軍勢を山城へ出してはじめに救援されるのが尤もです。これは信孝様のご指示です。」【藤堂家文書】


※河川は明治時代の古地図を基にした推定

山崎の戦い

1582(天正10)年6月13日、雨の中、明智軍(兵数10,000~16,000)が勝龍寺城から出陣する。

中備えに斎藤利三・柴田勝定、加勢として近江衆の阿閉貞征・小川祐忠ら、
左翼に津田信春、
右翼に伊勢貞興・諏訪盛直・御牧景重、
山の手に松田政近・並河易家を配置する。
【甫庵太閤記】

秀吉軍(兵数30,000)の先手が進軍する。

道筋(中央)を高山右近・中川清秀・堀秀政、
淀川沿いを池田恒興・加藤光泰・木村重茲・中村一氏、
山の手を羽柴秀長・黒田官兵衛・神子田正治・前野長泰・木下勘解由が進軍する。
【10月18日付 (信孝家老)斎藤利堯・岡本太郎左衛門宛 羽柴秀吉書状 金井文書】(以下【秀吉書状 金井文書】)

<山崎の戦い布陣図>
山崎の戦い布陣図


13日早朝、天王山で明智軍と秀吉軍が交戦する。

明智軍の松田隊1,000名が山の上から弓・鉄砲攻撃を行うため天王山に登る。秀吉軍からは堀尾吉晴が200名で山頂へ登り交戦、松田隊に勝利する。
山の麓では堀秀政が松田隊を攻撃し、勝利する。これにより松田隊は壊滅する。
【甫庵太閤記】


13日午前、高山右近が秀吉が前線に到着する前に明智軍と交戦する。

「ジュスト(高山右近)は羽柴殿の軍勢が遅れることを知ったので、彼が自らその危険を知らせに行こうとしたが、突然、明智の兵が村の門を叩くに及んでジュストはこれ以上待つことを望まず、また、彼は勇猛でデウスを深く信じ、戦時には果敢なので、1,000にも満たぬわずかな兵を率いて門を開き敵に襲いかかった。」【1582年度日本年報】

山崎の戦い布陣図


中川清秀と池田恒興が両翼から攻撃、包囲された明智軍は退却を始める。

明智軍の先手、伊勢貞興・諏訪盛直・御牧景重が東西に開き、南北に押し返し合い、高山勢と戦っているところ、中川清秀が左翼から、池田恒興が右翼から突進したため、下級兵士たちが動揺する。
伊勢貞興・諏訪盛直は勇敢に戦い討死、御牧景重は光秀へ退却するよう使者を送り、自身は突撃して討死する。【甫庵太閤記】

「彼らキリシタンはこれを勇敢に行なって1人の戦死者を出したのみであったが、最初の合戦ではたちまち明智の身分の高い者の首を200以上取った。それ故、明智の軍勢の士気が下がり始め、右の初回の攻撃が終わるとジュストの両脇を進んだ他の二人の殿が到着し、明智の兵は逃げ始めた。」
「この勝利は、聖母訪問の祝日の正午にもたらされ、明智の滅亡の主たる原因となった。」【1582年度日本年報】

「敵の士気をもっとも挫いたのは、三七殿(織田信孝)と羽柴殿が同所から1里足らずの所にあって2万を超える兵を率いていることを彼らが知ったからであった。だが、彼らは疲労していたためジュストのもとへ到着することができなかった。」【1582年度日本年報】


正午頃、明智軍は総崩れとなり、兵が逃亡する。

「明智の兵は非常に急いで逃亡し、この都から敗戦地まで4里あったが、多くの者は明智がその途中に占領していた城においても安全ではなかったので、午後2時、当地(京都)を通過し、慌てて逃げた。」
「多数の兵は都に入ることを望んだが、市の人々が入口で彼らの侵入を防いだので明智の主たる城である坂本へ向かった。
しかし、村々から盗賊が、また各所で別の輩が現れて馬や刀剣を奪うため彼らを殺したので多くの者は城に達することができなかった。」【1582年度日本年報】

夜、秀吉本隊(直番衆に福島正則・加藤清正・大谷吉継・山内一豊・増田長盛・仙石秀久・田中吉政)、織田信孝、丹羽長秀が山崎に着陣。

光秀は旗本3,000の兵と勝龍寺城に立て籠もる。申の刻(16~18時 ※夏至時刻)、秀吉軍は城を包囲して鉄砲攻撃を行う。
「十三日、雨降。申の刻、山崎方面に至り鉄砲の音が数刻鳴り止まない。一戦に及んだか、果たして五条口より落武者が大勢現れ敗北したようだ。」【兼見卿記(正本)】

「その十三日の晩に、山崎に陣取りしました。高山右近・中川清秀・堀秀政の軍勢に、明智は段々に分けて軍勢を揃えて切りかかるところを、道筋は高山右近・中川清秀・堀秀政が切り崩しました。南の手は池田恒興、我ら者の加藤光泰、木村重茲、中村一氏が切り崩しました。山の手は羽柴秀長、黒田官兵衛、神子田正治、前野長泰、木下勘解由、その外の軍勢をもって切り崩し、そして勝龍寺城を取り巻きました。
明智は夜に逃げ落ちたところを、あるいは川へ追い入れたことは、我らの覚悟によってできたことです。それにつき、明智は山科の籔の中に逃げ込み、百姓に首を拾われました。」【秀吉書状 金井文書】

光秀は坂本城を目指す途中で討死する(55歳、または67歳)。
【フロイス日本史】「(農民に金の棒を与え坂本城まで案内を頼むが)刀剣も取り上げてしまいたい欲に駆られ、彼を刺殺して首を刻ねた」
【多聞院日記】「山科にて一揆に叩き殺された」
【言経卿記】「醍醐辺りで一揆に殺害された」

斎藤利三は逃亡するも坂本の北にある堅田で捕えられる。

【惟任退治記】の山崎の戦いを開く

【1582年度日本年報追信】の山崎の戦いを開く

6月14日、秀吉が大津へ進軍、三井寺に入り一日滞在。翌早朝に坂本城へ出陣する。【惟任退治記】【兼見卿記】

本願寺から6月11日に明智光秀へ宛て、思い通りに平定されているので入魂頼み入れたいとの書状を送る。しかし使者は光秀の敗北を知り引き返す。

安土城炎上
【兼見卿記】「六月十五日、安土は放火、または山下からのもらい火のようだ。」
【惟任退治記】「安土城には明智弥平次(秀満)が在城していた。光秀敗北の報せが届くと宮殿楼閣は一度に焼き払われた。」

【日本年報1582年追信】「付近にいた信長の正しく一子が浅知恵に動かされてか理由はわからぬが、城の最上層の主な部屋に火をかけ、続いて市をも焼き払うことを命じるよう仕向けた」※発掘調査から消失範囲は本丸周辺のみと判明している

【6月17日付 遠藤秀繕書状 安養寺文書】「安土城は明智の息子、自然(十次郎、明智定頼)がとどまっていました。蒲生氏郷が来て(自然が城を)空けて出たと聞き、乗っ取りました。その他近江一国が以前のようになり、伊勢の織田信雄様を呼び立て、去る七日伊賀を越され、無事に進まれ請取られました。」
※参考文献:『本能寺の変 史実の再検証』盛本 昌広(著) 東京堂出版

※【蒲生記】では明智光秀が日野城を攻撃しようとするが、織田信雄が伊勢から進軍、日野近辺に布陣したと記載。

6月14日、安土城の明智秀満は軍勢1,000名を率い光秀に合流するため坂本城へ向かうが、近江へ進軍した堀秀政と大津で交戦、300名が討たれる。明智秀満は舟で坂本城で入り籠城する。
「その夜は追い討ちにされた光秀の兵は多数いた。長雨のせいで敵味方の区別がつかず、山科・醍醐・逢坂・吉田・白川・山中辺りで討ち取られた首は数がわからないほどだった。」【惟任退治記】

6月14日、明智方の槙島城 井戸良弘が開城することになり、大和国衆が向かう。【多聞院日記】

6月15日、秀吉軍が坂本城を攻撃。明智秀満は家臣や明智一族を刺し殺し、城に火をかけ自害する。
「山から見ると比叡山の東方面で大火災、これは坂本城を攻撃していると聞いた。」【多聞院日記】

6月15日、討ち取った首が秀吉のもとへ送られ、検視した際その中に光秀の首を発見する。【惟任退治記】 ※【浅野家文書】には百姓に首を拾われた、【日々記】には光秀の首は百姓が届けたと記載。
その後本能寺跡地に光秀と3,000ほどの首が並べられ、見物衆が集まった。【日々記】

6月15日、筒井順慶が出陣、夕刻に醍醐へ着陣する。どちらにつくか見合いをしたことを秀吉から曲事とされる。【多聞院日記】

6月16日、秀吉が大津から琵琶湖を渡り安土城に到着すると、悉く焦土化していた。【惟任退治記】

6月17日、六条河原にて斎藤利三が処刑される。

「十七日、斎藤利三、この度の謀反随一なり。堅田に隠れていたが探し出され、洛中を車にて引き回され、六条河原において処刑された。」【言経卿記】
「彼など信長打ちの談合衆なり。生け捕られ車にて京中引き回しされた。」【日々記】

「光秀が討たれたことを知らず堅田の知音に隠れていたところ計略により捕まった。まことに天運が尽きたところである。惜しいかな、利三はふだんは武芸ばかりをたしなんでいたのではない。…なぜ今この災難にあわないといけないのか、非常に残念である。…その後車で洛中を引き回された。光秀の首もまた身体につけられ粟田口で両人ともに磔刑にされた。」【惟任退治記】

秀吉が長浜城へ進軍、阿閉貞征の息子 貞大は降参せず城を退き山本山城へ籠城する。しかし中村一氏らの攻撃を受けて捕らえられ、6月18日に磔となる。佐和山城の明智方(武田元明)は丹羽長秀に降伏する。【惟任退治記】

同じく佐和山城を占領した京極高次は越前へ逃亡、柴田勝家に匿われる。【京極家譜】

6月19日、秀吉が明智方に長浜城を攻撃された際、母なかと妻ねねを匿った地侍の広瀬兵庫助に感状を送り、近江高山・甲津原・杉野500石の領地を与える。【羽柴秀吉・秀勝連署宛行状 甲津原文書】
(翌年11月12日にも1500石の領地を与える【広瀬文書】)

1582年6月18日、甲斐で武田旧臣による一揆が発生。甲州征伐後に甲斐四郡を統治していた河尻秀隆が殺害される。

1582年6月19日、北条氏直(兵数50,000)が上野国の滝川一益(兵数18,000)を攻撃(神流川の戦い)。北条軍が勝利する。滝川一益は北条へ人質を返還し、20日夜、箕輪城から松井田城(城主津田秀政)で兵を合流させ領国である伊勢長島へ撤退を開始する。

滝川一益は木曽郡へ向かったところ木曽義昌の通行妨害に合う。連れていた佐久郡・小県郡の人質(依田康国・真田昌幸の母)を引き渡すことで通行を許可される。滝川一益は清須会議に間に合わなかった。(箕輪から清須までは約300kmの距離なので日程的に困難だった)

6月20日、信孝は(光秀との関係が疑われていた)近衛前久に成敗あるべしと洛中にお触れを出し、近衛前久は京を追放される。

秀吉が近江・美濃・尾張へ進軍する。
明智方についた近江 山本山城の阿閉貞大、岐阜城の信忠家臣 斎藤利堯から人質を取り降伏させる。尾張では残党討伐を行い、人質を取り平定する。【秀吉書状 金井文書】

1582年6月24日、織田信雄が秀吉に、岐阜城近くに場所がないので北方に布陣した、そちらの良いように場所を決めてほしいと伝える。(清須会議を前に信雄は秀吉に連絡を取っていた)

清須会議

1582年6月27日、清須城にて織田家後継者と領土再配分が話し合われる。信孝と信雄が互いに名代を争うが、四宿老(秀吉・丹羽長秀・柴田勝家・池田恒興)が名代は置かず宿老が政務を執り行い、信忠の子 三法師(3歳)を支えることとした。信孝と信雄に伝えると両者はもっともだと同意した。【多聞院日記】【惟任退治記】【秀吉書状 金井文書】

領土配分は、信雄が尾張と南伊勢、信孝は美濃と北伊勢、柴田勝家は越前と北近江3郡、丹羽長秀は若狭と近江2郡、池田恒興は摂津、三法師は近江 安土城と坂田郡(代官は堀秀政)、秀吉は山城・河内・播磨・丹波と決定する。

三法師は安土城が修復中のため信孝の岐阜城に預けられた。

<清須会議での領土再分配>

1582年、柴田勝家(60歳)が信長の妹 お市の方(35歳)と再婚することが清洲会議で決まる。信孝の岐阜城で婚礼が行われ、その後お市の方は越前北ノ庄城へ移動する。清須城で暮らしていた妹の茶々(14歳)と江(10歳)も北ノ庄城へ移る。

1582年7月11日、秀吉が細川父子に血判起請状を送る。「この度の信長の不慮は比類なき御覚悟で頼もしい、入魂の間柄となり、思うことは心に残さず良いように意見を伝える。」【細川家文書】

1582年7月11日、秀吉が三法師を伴って上洛。本圀寺で吉田兼見ら公家衆と面会する。13日、秀吉が姫路城へ帰還。17日、信長への弔意を表した毛利輝元に感謝を伝える。その後19日に上京する。

1582年7月19日、明智方につき佐和山城を占領した武田元明が丹羽長秀領の海津 宝幢院で自害する。

1582年9月、細川藤孝が本能寺の変で光秀方についた丹後弓木城の一色満信(義定)を宮津城へ呼び出し、殺害する。その後細川家臣の松井康之が弓木城を攻撃、占領する。

1582年10月15日、秀吉が信長の葬儀を蓮台野(京の北西)で行う。
7日間の法要と仏事が続いた後、10月15日に葬礼が行われ秀長が3万の兵で警護に当たる。棺を乗せた御輿の前を池田輝政が、後は羽柴秀勝が担ぐ。側で秀吉が位牌と太刀を持つ。棺には3千人の行列が続き、洛中洛外から幾千の僧侶が読経を唱えながら歩いた。【惟任退治記】※【言経卿記】【兼見卿記】にも同様の内容が記載
この葬儀に信孝・信雄は出席しなかった。

1582年10月18日、秀吉が距離を置く信孝に対し披露状を送る。(一部抜粋)
「なぜ三法師を安土へ返さないのか。備中高松では二十七里を一昼夜で七日に姫路に入り、本来は休むところを八日に信孝様が明智に取り囲まれて腹を召されると聞き、昼夜なく後巻に駆けつけました。十三日の昼頃、川を越えられたので、私もお迎えに馳せ向かい、お目にかかると、お涙を落とし、私も大声で泣きました。
(明智討伐後は)我らの尽力といえども御兄弟にまず国を進上すべきと考えました。御葬儀を相談するも返事もなく勝家からも沙汰がなく、天下の評判はいかがかと思う。」【秀吉書状 金井文書】
(秀吉は自らの武功を述べ正義に基づくものだと主張した)

1582年10月28日、秀吉が丹羽長秀・池田恒興と手を結び、織田信雄を「御家督」として据える。これにより三法師を匿う信孝・柴田勝家と対立する。

1582年10月、飛騨国で八日町の戦いが起きる。信長の死を好機と見た江馬輝盛が姉小路頼綱を攻撃。江馬輝盛は討死、姉小路軍の勝利となる。

太閤検地
秀吉は支配下とした山城国で太閤検地(1582~1598年)を行う。以降丹波、越前、若狭など獲得した領土で検地を実施する。

年貢米を量る枡を当時の京枡(内寸は5寸(約15.2cm)×5寸×2.5寸(約7.6cm)、容積62500立方分)に統一する。(江戸時代の1669(寛文9)年には公定枡を64827立方分(1803.907mL)に統一。明治政府もこれを採用し現在まで続いている)

はじめは領主から土地台帳を提出させる指出検地を行なっていたが、1594(文禄3)年の文禄検地で測量する単位、度量衡(どりょうこう)を全国で統一する。また検地条目を大幅に追加する。

<長さの単位>
6尺3寸(約191cm)の長さ=1間(けん) ※曲尺(かねじゃく 約30.3cm)をもとにした6尺3寸=1間の検地竿を用いて測量した

<面積の単位>
一辺が1間(6尺3寸、約190.9cm)の正方形=1歩(ぶ)
30歩の面積=1畝(せ)
10畝の面積=1段(=反)(たん)
10段の面積=1町(ちょう)

※1593年の肥前国松浦郡では6尺2寸竿が使用された【猪熊文書】
※1間の長さが短くなるほど計測面積が広くなり年貢の引き上げとなる
※江戸時代の1間は各藩により5尺8寸~6尺3寸とされ、明治時代の度量衡法により1間は6尺(約181.2cm)と決まる。

※現在の1坪(=歩)は、一辺が1間(6尺、約181.2cm)の正方形で面積は3.30578512㎡(約3.3㎡)。1畝は約100㎡(1a)、1反は約1,000㎡(10a)、1町は約10,000㎡(1ha)として使用されている。



また水田(畑・屋敷も含む)ごとに等級(上・中・下・下々)を定め、等級に応じて石盛(1反当たりの標準収穫量)を設定した。

等級ごとの石盛:上田=1石5斗:中田=1石3斗:下田=1石1斗:下々田=9斗

検地の年貢率を二公一民(収穫の2/3を納める)とし、一地一作人の原則(1区画の耕作地に農民1名を登録)とした。

太閤検地の実施により、荘園制度を解体して地主による中間搾取を撤廃、大名が直接農民を支配できるようになる。また各領地の石高に応じて給与や軍役を課せる大名知行制が確立した。

<米の単位について>
1合=約180.39ml
1升=10合
1斗=10升
1石=10斗(=1000合=2.5俵(1俵4斗として)=150kg)

※米1石は成人1人が概ね1年間に消費する量と考えられている(1日3合×360=1,080合)
※水田面積の1反(=300坪、約1,000㎡)からは米1石(150kg)前後が収穫できる。(現在は収穫率が高いため同じ1反でも3倍ほど収穫できる)
※「俵(ひょう)」は米を流通させる際に使用された単位。戦国・江戸期は統一されておらず地域により1俵=四斗~六斗があった。現在は1俵=4斗(60kg)。

天正10年12月9日、秀吉が柴田領となっていた長浜城(城主 柴田勝豊(勝家の養子))へ侵攻。柴田勝豊は離反、城を開け渡し秀吉方につく。秀吉は柴田勝家と和睦(一時休戦)する。
(北陸は雪深く柴田勝家は援軍が出せなかった)

12月20日、秀吉(兵数20,000)が信孝の岐阜城を攻撃、信孝を降伏させる。三法師を引き渡させて安土城へ入城させ、信孝の娘と母(信長の側室 坂氏)を人質とする。
美濃の稲葉良通(一鉄)も秀吉に人質を出し、秀吉につく。

12月29日、秀吉が山崎城へ帰還する。

<宇喜多家>

1582年6月頃、秀家(11歳)が豪姫(前田利家の四女、9歳)と婚約する。(婚姻は1588年正月以前)
秀家は元服し、秀吉から「秀」の字を与えられる(幼名は於福、通称は八郎)。

1582年、秀家が従五位下・侍従の官位を与えられる。

<毛利家>

1582(天正10)年6月4日、備中高松城で安国寺恵瓊が秀吉と交渉を続ける。

毛利側は五ヶ国(備中・備後・美作・伯耆・出雲)割譲と起請文を添えた人質を出すこと、家を存続することを提示。4日に高松城主 清水宗治らの切腹で交渉がまとまる。(秀吉領との国境線交渉はその後も継続される)

1582年6月6日、小早川隆景が自国へ、1日に信長父子自害、謀反人は光秀・勝家・信澄と伝える。(まだ正確な情報はつかめていなかった)【萩藩閥閲録】

1582年6月9日、義昭が小早川隆景へ、備前・播磨へ侵攻し上洛に忠誠を尽くすよう御内書を出す。また毛利家臣 乃美宗勝や長宗我部家へも送る。

<長宗我部家>

本能寺の変が起き織田軍侵攻の危機を脱する。
(この頃、長宗我部元親は病のため8月まで軍事行動は行われなかった)

1582(天正10)年8月、長宗我部軍が讃岐・阿波へ侵攻する。

1582年8月28日、中富川の戦い。本能寺の変後に三好康長が河内へ撤退したため、長宗我部軍が勝瑞城の奪還に向かう。中富川で三好存保軍と交戦、勝利する。三好存保は勝瑞城に籠城するが9月21日に開城し、讃岐 虎丸城へ撤退する。

長宗我部軍は三好康俊の籠る阿波 岩倉城を攻撃して勝利。三好康俊は逃亡する。

1582年8月、長宗我部軍・香川軍が讃岐 十河城を攻撃するが落城できず撤退する。(第一次十河城の戦い)(1584年に落城する)

<龍造寺家>

1582年(天正10)10月、鷹尾城の田尻鑑種(旧大友家臣)が離反、島津方へつく。
1582年10月、辺春城の辺春氏も呼応して謀反。鍋島直茂が攻撃して鎮圧。

1582年11月頃、日野江城の有馬晴信が島津へ離反。

1582年12月、龍造寺が制圧していた釜蓋城(千々石城)を島津・有馬軍に攻撃される。

龍造寺隆信が大村氏に圧力をかけキリシタン撲滅を図る。大村城(玖島城)から大村純忠を退城させ、息子の大村喜前を入れる。

<島津家>

1582(天正10)年8月、隈本の城氏が再び島津方へつく。新納忠元らが隈本城へ入る。
その後義弘・歳久・家久、老中の伊集院忠棟・上井覚兼が隈本城へ入り、肥後攻略を進める。

1582年11月頃、龍造寺方となっていた有馬晴信が離反。家久を通じて援軍の要請が届き、島津から山田有信らを派遣する。
鷹尾城の田尻鑑種からも援軍要請が届く。

1582年12月、島津・有馬軍が龍造寺領の釜蓋城(千々石城)を攻撃。城を奪うが撤退、島津の派遣軍は八代まで撤退する。

1582年12月、家久が阿蘇氏と交渉を続け、甲斐宗運と和睦する(甲斐宗運は人質の提出はせず)。合志氏とも和睦する。
義弘は戦線が伸びたため肥後からの撤退を決定。

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