戦国時代勢力図と各大名の動向ブログ

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康など戦国武将の年表と勢力地図まとめ

1583年 賤ヶ岳の戦い


更新日 2018/5/26
<豊臣家>

1583(天正11)年1月、滝川一益が秀吉に対して挙兵。
伊勢 亀山城主の関盛信・一政父子(本能寺の変後に信孝方から秀吉方となっていた)が年賀の挨拶で姫路城を訪れた隙に、攻撃を行い、占領する。峯城(城主 岡本良勝)も占領する。
滝川一益は亀山城に滝川益氏、峯城に滝川益重を入れる。

1583年閏1月5日、山崎で秀吉が今井宗久、千利休(宗易)、山上宗二、津田宗及らと茶会を催す。【宗及他会記】

1583年2月、秀吉(兵数20,000)が伊勢の滝川一益領へ侵攻。
羽柴秀吉・羽柴秀長・羽柴秀次・織田信雄・掘秀政・山内一豊・高山右近・蒲生氏郷らが長島城、桑名城、亀山城を攻撃する。
蒲生氏郷らが亀山城を落城させる。(峯城は4月17日に降伏開城)

1583年3月、滝川一益は柴田勝家に出陣を求め、柴田軍が北近江へ進軍、賤ヶ岳に砦を築いて布陣する。秀吉は伊勢攻撃に織田信雄、蒲生氏郷を残し、兵数20,000で近江長浜へ向かう。

1583年3月、越中では佐々成政が再び魚津城を攻撃、占領する。

賤ヶ岳の戦い

合戦までの流れ
1582(天正10)年10月28日、秀吉が丹羽長秀・池田恒興と手を結び、織田信雄を「御家督」として据える。これにより三法師を匿う信孝・柴田勝家と対立する。

12月9日、秀吉が柴田領となっていた長浜城(城主 柴田勝豊(勝家の養子))へ侵攻。柴田勝豊は離反、城を開け渡し秀吉方につく。秀吉は柴田勝家と和睦(一時休戦)する。
(北陸は雪深く柴田勝家は援軍が出せなかった)

12月20日、秀吉(兵数20,000)が信孝の岐阜城を攻撃、信孝を降伏させる。三法師を引き渡させて安土城へ入城させ、信孝の娘と母(信長の側室 坂氏)を人質とする。
美濃の稲葉良通(一鉄)も秀吉に人質を出し、秀吉につく。

12月29日、秀吉が山崎城へ帰還する。

1583(天正11)年3月4日、柴田勝家が安芸の足利義昭(家老の眞木島昭光宛)へ書状を送り、毛利と協力して秀吉を攻撃することを要請する。

3月10日頃、柴田勝家(兵数30,000)が北ノ庄城を出陣。

3月12日、柴田軍が木之本付近まで進軍するが、秀吉軍の北上により後退。
柴田勝家は柳ヶ瀬の北方にある内中尾山(玄蕃尾城)、佐久間盛政は行市山砦に布陣する。

3月17日、羽柴秀吉(兵数50,000 羽柴秀長・堀秀政・中川清秀・高山右近・黒田官兵衛・桑山重晴・小川祐忠(柴田勝豊の家臣。柴田勝豊は4月16日に病死))が賤ヶ岳(しずがたけ)の余呉湖(よごこ)周辺に到着。

秀吉が木之本に本陣を置く。賤ヶ岳砦に桑山重晴、大岩山砦に中川清秀、岩崎山砦に高山右近、田上山に羽柴秀長が布陣する。
最前線には堂木山砦に木下一元、新明山砦に木村重茲、東野山(左禰山)砦に堀秀政を配置、街道には土塁を構築する。

賤ヶ岳の戦い布陣図
賤ヶ岳の戦い布陣図

3月17日、秀吉は上杉景勝へ、越中の佐々成政を攻撃するよう要請する(上杉景勝は2月に秀吉・信雄へ誓紙を送っていた)。

4月5日、柴田勝家が進軍、東野山砦の堀秀政を攻撃するが、堀秀政は攻撃を防ぐ。

4月12日、秀吉が小早川隆景へ返書を送り、優勢であることを伝える。
4月13日、堂木山の山路正国(柴田勝豊の家臣)が寝返り、佐久間盛政の陣へ逃亡する。

4月16日、岐阜城の織田信孝が再び挙兵したことで秀吉は陣を羽柴秀長・中川清秀・高山右近・黒田官兵衛らに任せ、15,000の兵で美濃へ向かい、大垣城へ入る。

4月19日、秀吉の離脱を知った柴田勝家は佐久間盛政に攻撃を命じる。前田利家は茂山砦に布陣し、柴田勝家も南下、東野山砦の抑えに向かう。

4月20日未明、佐久間盛政が行市山砦から南下、大岩山砦の中川清秀を攻撃、中川清秀は討死する(42歳)。岩崎山砦の高山右近も敗れ田上山方向へ敗走する。

丹羽長秀が琵琶湖を渡り上陸、桑山重晴と合流して賤ヶ岳砦を守る。

柴田勝家は引き返すよう命じるが佐久間盛政は戦闘を続ける。

賤ヶ岳の戦い進軍ルート

4月20日、秀吉は大雨で揖斐川が渡れず大垣城に滞陣中、柴田軍攻撃の報せが届く。秀吉は抑えとして大垣城に兵10,000を置き、残りの兵を連れ賤ヶ岳へ引き返す(美濃大返し)。

4月20日夜、秀吉が賤ヶ岳へ帰陣、田上山に布陣する。

4月21日夜明け、秀吉の到着により、佐久間盛政が撤退を開始。
秀吉は全軍で追撃、殿軍の柴田勝政を攻撃する。佐久間盛政も引き返し、両軍で交戦となる。

賤ヶ岳の戦い進軍ルート
※進軍ルート・戦闘場所は推定

茂山に着陣していた前田利家が柴田軍から離反、戦場から離脱する。

4月21日正午頃、秀吉軍は福島正則、加藤清正らの活躍により佐久間隊に勝利する。

秀吉は柴田勝家へ攻撃を開始。柴田勝家は敗走、北国街道を通り越前 北ノ庄城へ退却する。

4月22日、秀吉軍が越前へ進軍、 府中城の前田利家が降伏し秀吉に加わる。

4月23日、秀吉軍が進軍、北ノ庄城を包囲。
4月24日、秀吉軍が攻撃を開始すると柴田勝家(60歳)は妻 お市の方とともに自害、北ノ庄城は落城する。

この時、お市の方の娘、浅井三姉妹は救出される。
逃亡を図った佐久間盛政を捕らえ、処刑する。

5月15日、秀吉が小早川隆景へ賤ヶ岳の戦勝報告を行う。

「柴田修理亮(柴田勝家)が罷り出たところへは、秀吉の馬廻りにて、敵三万余りいるところへ、三手に分けて切り懸けました。
柴田のことは、織田家において、若い頃より度々戦いをしてきた者であって、三度まで槍を合わせて度々戦い、(その強さに)驚きました。

卯の刻より未の刻まで、切り合いましたが、互いに腰を落として座って休息を取り、勝負がつきませんでした。秀吉は頃合いを見て小姓ばかりで柴田旗本へ切り懸け、すぐに突き崩し、五千余りを討ち殺したところ、全軍が木目の弓手、馬手、営中へ逃げ込みました。」【小早川隆景宛 秀吉書状 毛利家文書】

【1582年日本年報追信】賤ヶ岳の戦いを開く

<戦後の主な論功行賞>
丹羽長秀:若狭(安堵)、越前・加賀南半国二郡(加増)
前田利家:能登(安堵)、加賀北半国二郡(加増)
織田信雄:尾張・南伊勢(安堵)、北伊勢・伊賀(加増)
池田恒興:美濃(摂津から転封)
蜂屋頼隆:敦賀(和泉から加増転封)
佐々成政:越中(安堵)
羽柴秀長:播磨・但馬

蒲生氏郷:近江日野(安堵)、伊勢亀山(加増)
高山右近:摂津高槻(安堵)
中川秀政:摂津茨木(安堵)
加藤清正:近江郡栗太郡、山城国内、河内讃良郡

1583年6月5日、秀吉が賤ヶ岳の戦いで手柄を立てた諸将に感状を送る。
脇坂安治・片桐且元・平野長泰・福島正則・加藤清正・糟屋武則・加藤嘉明(賤ヶ岳七本槍
(石川兵助・桜井佐吉にも感状は出されていたが、石川兵助はこの戦いで戦死、桜井佐吉は1586年に病死する)

柴田方についていた京極高次は、秀吉に捕られた妹 京極竜子(元武田元明の正室)が秀吉の側室となることで翌年許される。

賤ヶ岳の戦い後、秀吉は加賀へ進軍する。

越中の佐々成政は佐久間盛政の抜けた金沢城を占領していたが、秀吉軍が金沢城を包囲。佐々成政は剃髪し、人質を出して秀吉に降伏する。【1588年閏5月14日付 島津義弘宛 秀吉書状】

金沢に入り仕置きを行う。また上杉景勝から人質が送られる。【5月15日付 小早川隆景宛 秀吉書状】

丹羽長秀は越前北ノ庄へ入り、前田利家は七尾城から金沢城へ居城を移す。

岐阜城の織田信孝は兄信雄に城を包囲され、降伏する。
1583年4月29日(または5月2日)、信孝は秀吉の命により知多郡にある内海大御堂寺(野間大坊)にて切腹となる(26歳)。【多聞院日記 5月10日条】
また人質である信孝の母 坂氏と娘を磔にして処刑する。

1583年5月7日、秀吉が安土城へ帰還する。

1583年5月、家康から使者 石川数正が訪れ、戦勝祝いとして茶器「初花肩衝」が献上される。

1583年5月15日、秀吉が領土国分で交渉を続ける毛利へ、賤ヶ岳での戦勝報告の書状を送り自分が腹を立てないようにと圧力をかける。

秀吉は摂津の池田恒興を美濃へ転封とし、5月25日、大坂城を請け取る。【多聞院日記 5月25日条】
池田恒興は大垣城、嫡男 元助は岐阜城へ入る。

河内の三好康長には美濃へ入るよう命じ、河内を支配下に置く。【フロイス書簡】

1583年5月、美濃では森長可が離反した家臣や織田信孝家臣に勝利、東美濃を平定する。

1583年7月、伊勢長島城の滝川一益が勧告に応じ降伏。滝川一益は出家して蟄居となる。

1583年7月、近江から本格的に太閤検地を開始、1598年まで実施される。検地奉行は石田三成・浅野長政(長吉)・長束正家・増田長盛が担当する。

1583年9月、毛利との人質交換として吉川広家・小早川秀包を預かる。吉川広家は11月に帰国させる。

1583年9月1日、大坂城の築城工事を開始。
秀吉が石山本願寺の跡地に大坂城の築城を開始する。全国から職人を呼び寄せ、石田三成、増田長盛、浅野長政、黒田官兵衛が普請奉行として執り行った。
秀吉は8月28日、黒田官兵衛に「石運び掟」を示し、石垣積みの注意点を伝える。【光源寺文書】

「何千人とも知れぬ人々がその工事に従い、多数の諸侯がそこで働くために訪れた。秀吉は城の周囲に各自の宮殿なり豪華な邸宅を造営するように命じ、信じがたいことであるが、わずか40日間に2,500以上の家屋が完成した。」【フロイス日本史】

第一期工事(本丸)は1585年に終了、第二期工事(二の丸)、第三期工事(忽構堀)と築城が継続される。第一期工事では5万人、第二期工事では最大10万人が動員された。
1594年に外周惣構(周囲約13km)が完成。1598年に三の丸が完成する。大坂城では日本最古となる下水工事も行われる。

<徳川家>

1583(天正11)年2月20日、依田信蕃が徳川に抵抗する岩尾城(城主 大井行吉)を攻撃するも銃撃に合い戦死する(36歳)。嫡男康国が松平康国として小諸城を継ぐ。

1583年4月、真田の上田城の築城を支援する。

<北条家>

1583(天正11)年、佐竹義宣が小田氏を降伏させ、小田氏一族の岡見氏が北条に頼る。岡見氏の牛久城は隣国の国衆らに統治させる。
1583年9月、厩橋城の北条高広を攻撃、降伏させる。

1583年11月、北条から城の借用を求められた由良・長尾氏が領地没収と判断し、籠城する。両名は捕らえられ、小田原へ送られる。(85年1月に帰城)

<上杉家>

1583(天正11)年2月7日、上杉景勝が秀吉・織田信雄へ誓紙を送る。

1583年3月17日、賤ヶ岳で柴田勝家と対陣中の秀吉から、越中の佐々成政を攻撃するよう要請が届くが、新発田重家と交戦中の上杉軍に余力はなく出兵を留まる。

賤ヶ岳の戦いで秀吉が勝利すると、景勝が派兵しなかったことから、秀吉から互いの誓約は反故になったと伝えられる。
景勝は秀吉へ使者を送り太刀や馬を献上、服従を伝える。

1583年8月下旬、景勝が新発田領へ進軍。撤退時に湿地帯で重家の追撃に合い、大敗する(放生橋の戦い)。

<真田家>

1583(天正11)年、徳川配下として真田昌幸が小県郡の平定を開始。室賀領を攻撃、室賀正武が真田配下となる(翌年暗殺される)。
1583年3月、上杉領の虚空蔵山で景勝軍と戦い、昌幸が勝利。
1583年4月、家康の支援を受け上田城の築城を開始。

<毛利家>

1583(天正11)年2月、柴田勝家が吉川元春へ毛利軍の上洛を求める。【吉川家文書】
毛利家には秀吉からも書状が届く。「両方の強弱がわからないので、両方にかけて見合いをするべきだ」【毛利家文書】

1583年5月15日、秀吉から17項目に及ぶ賤ヶ岳の戦勝報告が送られ、領土国分について自分を腹を立たせないようにと圧力をかけられる。

1583年9月、秀吉との人質交換として吉川広家・小早川秀包を大坂に預ける。

<長宗我部家>

1583(天正11)年4月、長宗我部軍が讃岐へ侵攻、十河城・虎丸城を攻撃。敵対する秀吉は仙石秀久を讃岐へ派遣するが長宗我部軍が勝利する。(引田の戦い)
同時期、親泰が木津城を攻略。

賤ヶ岳の戦いでは織田信孝・柴田勝家を支援する。

<龍造寺家>

1583(天正11)年5月、島津・有馬軍の侵攻を受け、安徳城を攻略される。

1583年6月、島津軍と有馬軍が龍造寺に離反した深江城(安富氏)を攻撃。その後、龍造寺隆信は深江城の救援と有馬氏討伐のため出陣、沖田畷の戦いが起きる。

<島津家>

1583(天正11)年、有馬氏へ援軍を送り、島津・有馬軍が龍造寺領の千々石城を攻撃。
1583年5月、島津・有馬軍の侵攻により、有馬氏が安徳城を奪還する。

1583年、島津軍が阿蘇氏の堅志田城を攻撃。(落城は85年)

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