戦国時代勢力図と各大名の動向ブログ

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康など戦国武将の年表と勢力地図まとめ

1570年 - 72年 足利義昭による信長包囲網

戦国時代1570年の勢力図
更新日 2018/1/20
<織田家>

1570(永禄13)年1月23日、信長が朝山日乗・明智光秀宛で足利義昭への五箇条の条書を送る。

一、諸国へ御内書を命じることがあるならば、信長に報告し信長の書状を添える事
一、これまでの命令は全て破棄し、考え直した上で定める事
一、公儀に忠節を尽くした者に恩賞・褒美を与えようとしても、領地がないので、信長の分領の中から将軍が命令を申し付ける事
一、天下の儀、いかようにも信長に任せ置かれた上は、誰かに従わず、将軍の上意を得ることもなく、信長の判断で成敗する事
一、天下静謐になったので、宮中の儀は将軍が常に油断なく行う事
【成簣堂文庫所蔵文書】

(信長は前年に続き義昭へ掟を出し、さらに強く政治・軍事の決定権を主張した)

その後信長は畿内周辺の大名に忠誠を誓わせるため上洛を命じる。

1570年1月26日、公家の山科言継が幕府奉公衆の明智光秀らを訪問する。
「未の下刻より奉公衆方へ、年頭の礼(答礼)に向かう。道中の次第は、竹内治部少輔、三淵藤英、同弥四郎、一色藤長、曾我助乗、明智光秀…等也。」【言継卿記】

1570年2月25日、信長が岐阜から京へ向かう。

安土の常楽寺で相撲取りを呼び集め相撲を見物する。【信長公記】(※【信長公記】では3月3日に安土滞在、5日に上洛と記載されているが誤りと思われる)

2月30日申の刻(15~17時)、信長が上洛。【言継卿記】【御湯殿上日記】
徳川家康が信長の上洛に随行する。京都には三好義継・和田惟政・松永久秀ら諸大名が終結する。【三好家譜】

3月1日、信長が二条新御所の義昭を訪問する。
信長が衣冠に正装し、禁裏に参内する。正親町天皇・誠仁親王へ御太刀や御馬を献上する。【言継卿記】

3月4日、山科言継が渡御のため午刻に信長を訪ねるが、信長は頭痛で臥せており明日の渡御となる。【言継卿記】
3月17日、洛外の桜馬場で徳川衆の乗馬があり、足利義昭が見物する。豪華な催しで貴賤の見物人が2万人集まる。【言継卿記】

金ヶ崎の退き口

1570(永禄13)年4月20日、信長は上洛命令を無視した朝倉義景の討伐に向かう。織田軍は坂本を北上し22日に若狭へ入る。

1570(元亀元)年4月25日、越前敦賀へ進軍。金ヶ崎城の東側にある手筒山城を攻撃、1370名を討取り落城させる。
4月26日、信長は金ヶ崎城(城主 朝倉景恒)へ攻撃を開始すると、城兵は戦意を失い降伏する。織田軍は南の疋田城も開城させる。

木目峠を越え越前国内へ北上しようとしたところ、浅井長政が裏切ったとの報せが入る。信長は虚報として信じなかったが次々に報せが届く。

信長は"是非に及ばざること"と言い、金ヶ崎城に殿軍として木下藤吉郎を置き、撤退を開始する。
近江で国衆 朽木元綱の協力を受け朽木越えを行い、4月30日に京へ帰還する。
【信長公記】

※【波多野秀治宛 一色藤長書状】
「金ヶ崎城に木下藤吉郎、明智光秀、池田勝正、その他残し置かれ」

※【言継卿記 4月29日条】
「近江へ六角が出陣、周辺に放火し、北郡の浅井と申し合わせて信長に別心したらしい。」

1570(永禄13)年4月23日、元号が「元亀」に改められる。

1570(元亀元)年5月9日、越前から戻った信長が20,000の軍勢で出陣。【言継卿記】
5月13日、永楽城へ入る。

信長は京周辺の国衆から人質を提出させ、近江永原に佐久間信盛、長光寺に柴田勝家、安土城(信長の安土城以前にあった支城)に中川重政を置く。
5月19日、岐阜へ向け引き返す。

しかし浅井長政は東近江の鯰江城に兵を入れ市原で一揆を起こさせ、信長の通行を妨害する。信長は蒲生賢秀らの協力を得て千草越え(日野~四日市)へ向かう。

そこへ甲賀の六角承禎が忍者 杉谷善住坊を派遣。杉谷善住坊は千草山中の道に鉄砲を携えて潜み、信長一行が近づくと十二、三間(約20m)の距離から2度発砲する。幸い弾は体をかする程度で済み、信長は5月21日に岐阜へ帰還する。【信長公記】(杉谷善住坊は3年後に捕らえられ処刑される)

1570年6月4日、野洲河原の戦い。甲賀郡で体制を立て直した六角義賢(承禎)が南近江に侵攻、野洲川付近で柴田勝家・佐久間信盛らと合戦。織田軍の大勝となる。以降甲賀衆が織田の傘下に入る。

1570年6月、池田城で池田勝正家臣の荒木村重と勝正の嫡男 知正が謀反を起こし、池田勝正は追放される。

姉川の戦い

1570(元亀元)年6月19日、信長が浅井討伐のため岐阜城から出陣。

関ヶ原の西側にある長比・苅安砦を内応させて攻略、信長が長比砦に入る。

6月21日、小谷城まで進み山麓の町に放火して後退、その後織田軍は虎御前山に布陣する。
6月24日、長浜の東にある横山城を攻撃、包囲する。
6月27日、援軍の徳川家康が到着。織田軍とともに長浜に着陣する。

越前から朝倉景健の援軍(兵数8,000)が到着。浅井長政(兵数5,000)は大依山で合流し、浅井・朝倉軍は城に入らず南へ進軍、6月28日未明、姉川を挟んで布陣する。

信長も出陣、徳川軍(兵数3,000 徳川家康・酒井忠次・石川数正)は西の朝倉軍、信長と美濃三人衆である稲葉良通(一鉄)・安藤守就・氏家直元(卜全)、佐久間信盛・柴田勝家・森可成・木下藤吉郎・池田恒興(兵数10,000)は東の浅井軍と対峙する。

6月28日卯の刻(4~6時 ※夏至時刻)、開戦。徳川軍の活躍もあり、織田軍の勝利となる。

「今日巳の時、越前の衆ならびに浅井長政が、横山城の後詰めとして野村というところまで進出した。両陣の人数は、越前の衆一万五千計り、浅井の衆五、六千もあったか、同刻此の方より切りかかり、両陣へまとめて合戦を遂げ、大勝となった。

この度岡崎の家康出陣、我等馬廻りの者と先陣のことで話し合いになった。家康に申し付け、池田恒興、丹羽長秀を加え、越前衆に攻めかかって切り崩した。浅井衆には馬廻りにその他の衆を加え、討ち果たした。」【信長書状 津田文書】

「未明に打ち出し、姉川において合戦に及ぶ。初めの合戦は信長、家康方が押し立てられ、左翼は家康の旗本が押し直し、越前衆は敗北した。右翼は信長の旗本へ戦い合うところに、稲葉一鉄が横から攻めかかり、浅井は敗北、敵は多数討ち捕られた。」【当代記】

織田軍は小谷まで追撃を行うも、小谷城(標高約400m)は高山の難所であるため攻め上るのは難しいと判断。南にある横山城を攻撃して占領、木下藤吉郎が守備に入る。

信長は佐和山城へ進軍、丹羽長秀・市橋九郎右衛門・水野信元・河尻秀隆に四方から佐和山城を包囲させ、信長は京へ向かう。(佐和山城は翌年に落城)

1570年7月6日、信長は馬廻り衆だけを連れ上洛。足利義昭へ戦勝報告を行い、7月8日、岐阜城へ帰還する。【信長公記】
(【言継卿記】では、7月4日申の刻(15~17時)に上洛、四、五騎にて上下三十人ほどで上られた。山科言継は雑談のあと明智光秀の所へ行くと記載)

野田・福島城の戦い

本願寺との第一次石山合戦が始まる。
1570(元亀元)年7月、三好康長と三好三人衆が四国阿波から摂津へ上陸。野田・福島の砦を城へ拡張し、占拠する。

8月20日、信長が岐阜城から出陣。
8月23日、上洛して本能寺へ着陣する。25日、大坂へ出陣。

8月26日、野田・福島城(兵数8,000)を包囲し、信長(兵数30,000)は南の天王寺に着陣する。
9月3日、信長の要請を受け足利義昭も出陣、摂津 中島の堀城へ入る。

9月6日、本願寺顕如が宗徒へ、信長を非難した檄文を送る。
「信長上洛につき、こちらは迷惑している。一昨年以来難題を懸け申してきて、随分な扱いであり、向こうへ応じたがその甲斐なく、(石山本願寺を)破却すべきとの内容を告げて来た。」【明照寺文書】

また本願寺顕如は諸国の宗徒へも檄を飛ばし、一揆を扇動する。

9月9日、信長が北へ移動、天満の森へ本陣を移す。
9月12日、野田・福島の十町(約1.1km)北にある海老江城へ信長と足利義昭が入る。

野田・福島城へ攻撃を開始。紀伊の信長派 雑賀・根来・湯河衆(兵数20,000、鉄砲3,000挺)も参戦して攻撃する。

野田・福島城から和睦の申し入れが来るが、信長は兵糧攻めにすると言い、拒否する。

9月13日、石山本願寺から兵が出て鉄砲攻撃が行われる。
9月14日、天満の森へ攻撃してきた三好勢と交戦する。

(本願寺に呼応した浅井・朝倉軍が南下、森可成に勝利する)

9月23日、この動きを聞いた信長は京へ侵攻されるのを防ぐため、三好勢と和睦して攻撃を中止、撤退する。

9月、本願寺に呼応した浅井・朝倉軍が信長の背後を狙い南下。12月まで織田軍と浅井・朝倉・延暦寺が対峙する(志賀の陣)。

浅井・朝倉軍は一揆勢と合流し30,000の兵数となる。

「越前の軍勢八千ほどが近江堅田まで来たらしい。洛中は騒動になっている。」【言継卿記 9月12日条】
「越前衆、北郡高島衆など、その他一揆ども三万ほどが坂本へ打ち出したらしい。」【言継卿記 9月20日条】

9月16日、坂本の南にある宇佐山で森可成が交戦、勝利する。
9月19日、再び浅井・朝倉軍が攻撃を行う。織田軍は敗北、森可成は討死する(48歳)。

9月21日、浅井・朝倉軍は醍醐、山科を焼き払い京へ進軍する。

9月23日、この動きを聞いた信長は京へ侵攻されるのを防ぐため、野田・福島城の攻撃を中止、撤退する。その日に本能寺へ入る。

9月24日、信長が京から坂本へ進軍。浅井・朝倉軍は兵を引き、比叡山に陣を置く。

信長は比叡山延暦寺へ朱印状を送る。
味方につくなら山門領を返すこと、またはどちらにも加担しないこと。もし従えない場合は一山を焼き払うと伝える。しかし延暦寺からは返答はなく、浅井・朝倉方につき、また女人を入れ魚鳥を食していることが判明する。

9月25日、信長は比叡山の麓を包囲、宇佐山城に本陣を置き、対陣が続く。
比叡山西の麓にある将軍山では一揆勢2,000が籠城。織田軍が山へ入り寺に放火する。

1570年11月13日、勝軍城に在陣している明智光秀が吉田兼見邸を訪れる。「明智十兵衛尉来たり、石風呂所望により焼き了ぬ」【兼見卿記】

11月末、雪深くなり朝倉方から和睦の嘆願が行われる。足利義昭の仲介により、12月3日、朝倉・浅井軍と和睦が成立する。

12月17日、信長が岐阜城へ帰還する。

1571(元亀2)年2月24日、昨年から包囲を続けていた佐和山城の浅井家臣 磯野員昌が降伏、丹羽長秀が城代として入る。

1571年5月6日、浅井長政が木下藤吉郎が守る横山城へ兵5,000を出す。藤吉郎は手勢500程度で出陣、敵兵が一揆勢ということもあり防戦に成功する。

1571年5月、第一次伊勢長島攻め。石山本願寺に呼応し、長島で一向一揆が起きる。織田軍が長島を攻撃するも撤退。この時地形を生かした一揆衆の追撃に合い、西美濃三人衆の一人 氏家卜全(直元)が討死する。

1571年8月28日、池田城の荒木村重・中川清秀が高槻城主 和田惟政・伊丹城主 伊丹親興・茨木城主 茨木重朝と交戦(白井河原の戦い)。
この戦いで和田惟政と茨木重朝は討死、荒木軍は茨木城を占領するが信長が兵を出したことで荒木軍は撤退する。
(その後1573年に荒木村重は信長に服属する。和田惟政に仕えていた高山友照・右近父子も荒木村重に仕える)

1571年8月18日、信長が岐阜城から出陣。9月3日、近江金森の一向一揆を攻撃、降伏させる。その後比叡山方面の西へ進軍、9月11日、瀬田付近に着陣する。

1571年9月2日、光秀は信長から比叡山延暦寺攻撃の準備を指示される。光秀は周辺土豪の和田氏・八木氏へ織田に帰参するよう伝え、反発する仰木氏へは撫で斬りにすると伝える。

1571(元亀2)年9月12日、比叡山延暦寺焼き討ち。

昨年信長は浅井・朝倉に協力する比叡山の僧兵へ勧告を行うが、返答がなかったため攻撃を決定する。

門前町である坂本の町を放火、住民・僧兵が逃げ込んだ麓にある西教寺や日吉大社、山上の根本中堂でも放火を行う。(フロイスは比叡山の東約2kmにある八王子山の山王での焼き討ちを記録)

※【信長公記】
「九月十二日、比叡山に取り寄せ、(山上の)根本中堂、(麓の)山王二十一社をはじめ、霊仏、霊社、僧坊、経巻など一棟も残さず、短時間で雲霞のごとく焼き払い、灰燼の地となり哀れである。山下の老若男女、右往左往して何もかも忘れ、取るものも取りあえず皆裸足で八王寺山へ逃げ上り、社殿に逃げ籠もった。

兵は四方からときの声を上げて攻め上った。僧俗・児童・智者・上人を一人一人首を斬り、信長の前に差し出した。山頂では名のある高僧・貴僧・有智の僧であり、その他美女・小童が数をも知れず捕らえられ、連れられた。
信長の前で彼らは"悪僧の誅伐はしかたありません。しかし我らはお助けください"と口々に申し上げたが、信長は全く許さず、一人一人首を打ち落とした。目も当てられない有様であった。数千の死体が乱れ、哀れなる成り行きであった。信長は年来のうっぷんを晴らされたのであった。」

※【フロイス日本史】
「彼はきわめて著名な山王という寺院を焼却した。同社は比叡山に近く八王寺という山にあり、その麓には二十二の、非常に豪華で見事な眺めの神社を持った清潔な谷がある。またそこには、華麗で巧妙に作られた大きい一種の輿が7つあった。これらは年に一度、比叡山の全僧侶が出て、きわめて盛大な行列をする祝祭の折に用いられ、その際、彼らは同所の麓にあって二十二里の長さの湖上で、すべて武装して舟に乗るのであり、これを坂本の祭りとした。
これらすべては信長によって灰燼に帰した。…この山王の社で、彼に敵対して武器をとった1,120人の僧侶を殺戮し、近江国の三分の一なる比叡山の全収入を兵士たちの間に分配した。」

※【多聞院日記】
「比叡山・和邇・堅田・坂本、悉く信長より放火されたという。真実か否かわからない。黒煙が見え上がった。信長は在京したという。いかが成り行きになるのか、心細いものである。」

【多聞院日記】の著者 英俊が1570年3月に比叡山延暦寺を訪れた記録
「根本中堂は二、三の明かりが灯るのみ、堂も坊舎も一円朽ち果てた有様、僧衆は概ね坂本の町へ下り乱行不法限りなし、修学廃怠ゆえこのようになっている、周辺の寺も同じ状態で悲しいことだ。」(当時の延暦寺には建物は少なく、僧は麓や町に集まっていた)

比叡山焼き討ちの後、明智光秀が正式に足利義昭の家臣から離れ信長に仕える。信長は近江志賀郡を光秀に与え、坂本城を築かせて比叡山の監視をさせる。

光秀は山城国の高野蓮養坊、廬山寺など比叡山東西の山門領を自らの所領とする。
また坂本の復興を行い、焼け落ちた西教寺を再建する。

1571年9月13日、信長が小姓衆・馬廻りを連れ上洛。妙覚寺へ入る。【言継卿記】
その後信長は永原城で宿泊し、20日、岐阜へ戻る。

1571年、3年前から実施していた御所の修築が完了する。

1571年、但馬国の山名祐豊が丹波国の赤井直正を攻撃。反撃に合い、信長に援軍を求める。
織田に服従していた丹波国の国衆が織田から離反。

1571年、筒井順慶が信長に仕える。

1572(元亀3)年1月20日、公家の吉田兼見が年賀の答礼に普請中の坂本城を訪問する。
(吉田兼見は光秀と交流があり、信長の上洛予定を教えてもらったり父の吉田兼右と信長の面会など取次役にもなっていた)

1572年3月5日、信長が岐阜城を出陣。7日、小谷城付近の村を放火する。

1572年3月12日、信長が上洛、兵700で妙覚寺へ着陣する。【兼見卿記】
三好・本願寺との和睦が成立、細川昭元、岩成友通が使者として訪れる。本願寺から掛軸「万里江山」と茶器「白天目茶碗」が献上される。

朝廷から、上洛時の定まった屋敷を建てるよう通達があり、足利義昭が徳大寺殿御屋敷を普請する許可を出す。3月24日、着工となる。

1572年5月14日、信長が京から岐阜へ向かう。

1572年5月頃、大和の松永久秀が三好義継とともに離反、信長包囲網に加担する。佐久間信盛・柴田勝家らが出陣するも、三好義継は若江城、松永久秀は信貴山城、息子の久通は多聞山城へ籠城する。

1572年5月13日、足利義昭が武田信玄に御内書を送る。信玄からの起請文を讃え、天下静謐に尽力するようにと伝える。

1572年8月、信長が虎後前山(標高230m)に大規模な砦を築き、木下藤吉郎を配置する。(虎後前山は浅井長政の小谷城から2kmの位置にある山で四方の見通しがよく、前線基地には最適だった)

1572年11月、朝倉・浅井軍が虎後前山砦を攻撃、木下藤吉郎が勝利する。

この頃、信長が足利義昭に十七ヶ条の異見書を送り、義昭の行動を非難する。

1572年10月、武田信玄が西上作戦を開始、三河に攻め込んだことで、武田との同盟は解消となる。
1572年11月、岩村城のおつやの方が武田に離反、岩村城が武田軍に占領される。

1572年11月20日、信長が武田信玄に書状を送る。信玄は前代未聞の無道者であり、この遺恨を決して忘れず、未来永劫、手を結ぶことはないと伝える。【歴代古案】

1572年11月、武田牽制のため上杉と濃越同盟を結ぶ。

12月2日、武田信玄に呼応した朝倉義景・浅井長政軍が南下するが、虎御前山砦で秀吉が交戦して勝利、朝倉・浅井軍は退却する。

12月、近江 坂本城が完成する。
「城中に天主が作られ全て見たが驚いた」【兼見卿記】
「日本人にとって豪壮華麗にもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。」【フロイス日本史】

<徳川家>

1570(元亀元)年2月30日、上洛した信長に同行するため家康も初めて上洛する。3月17日、桜馬場で足利義昭に徳川衆の乗馬を披露する。

1570年10月8日、家康が上杉謙信へ起請文を送る。武田とは手切れすることを伝え、上杉と織田が入魂できるよう自分が信長へ意見を述べること、また織田と武田との縁談(信忠と信玄五女 松姫との婚約)を破棄させると伝える。

1570年、徳川家康が居城を岡崎城から浜松城(曳馬城から改称)へ移す。天正9年まで城の拡張工事を行う。

1570年、武田信玄が駿河西部に田中城を築城、対立を強める。

1571年、奥三河の山家三方衆(作手奥平氏・田峯菅沼氏・長篠菅沼氏)が武田方につく(田峯菅沼氏の菅沼定盈、菅沼定利は寝返らず徳川方に留まる)。

1572(元亀3)年9月29日、武田信玄の西上作戦が開始される。

山県昌景・秋山虎繁(兵数3,000)が信濃から奥三河へ侵攻、武田信玄本隊(兵数22,000)は信濃から青崩峠を越え、遠江へ侵攻する。

10月13日、本多忠勝・内藤信成が偵察に出陣、家康(兵数3,000)も出陣する。一言坂で武田軍と遭遇、交戦するが兵が少ないため浜松城へ退却する。(一言坂の戦い

武田軍は追撃を行い、10月16日、二俣城(城主中根正照)を包囲する。

1572年10月16日、二俣城の戦い
12月19日、武田軍は川から汲む水の手を絶ち、中根正照が降伏する。

織田からの援軍 佐久間信盛(兵数3,000)が浜松城へ到着する。

元亀3年12月22日、三方ヶ原の戦い

二俣城を攻略した武田信玄(兵数25,000)が出陣、浜松城を通過して西進する。

家康(兵数10,000)は家臣の反対を押し切り浜松城から出陣、追撃に出たところを待ち構えた武田軍と交戦し、大敗する。家康は浜松城へ退却する。

【三河物語】【甲陽軍鑑】の三方ヶ原の戦いを開く

【信長公記】
「家康公は陣の中央を切り破られ、軍勢の中へ乱れ入り、左へ逃れ、三方ヶ原の岸の道を一騎で退かれたのを、敵は先に待ち受け道を遮った。家康公は馬上から弓で射倒し、駆け抜け、御通りされた。これに限らず、弓の御手柄は今に始まったことではない。」

12月22日夜、大久保忠世が犀ヶ崖にいる武田陣へ夜襲をかける。

<武田家>

1570(永禄13)年1月、駿河の花沢城、徳之一色城を落とす。
駿河西部に田中城を築城、家康との対立を強める。

1570年、伊豆へ侵攻、北条領の韮山城など諸城を占領。北条へ圧力をかけて駿河の支配を優位にする。
1570年頃、飛騨の江馬氏に越中 新川郡中地山を任せる。

1571(元亀2)年、上野 尻高城を攻略。
1571年、信玄が駿河 深沢城を攻撃、占領。駿河を支配下に置く。劣勢となった北条氏政と再び甲相同盟を結ぶ。
1571年、奥三河の山家三方衆(作手奥平氏・田峯菅沼氏・長篠菅沼氏)が武田方につく(田峯菅沼氏の菅沼定盈、菅沼定利は寝返らず徳川方に留まる)。

1571年9月、勝頼の正室 龍勝院(信長の姪)が死去。

1572(元亀3)年閏1月、上杉謙信が上野 石倉城を攻撃。武田信玄が救援に向かい、利根川を挟んで上杉謙信と対陣するが双方退却する。

1572年4月7日、武田信玄が福寿院・普門院へ、この一年は上杉が信濃・上野の二国へ兵を動かさないようにと祈願文を出す。

1572年5月13日、足利義昭が武田信玄に御内書を送る。信玄からの起請文を讃え、天下静謐に尽力するようにと伝える。

この頃本願寺顕如と連携し、越中で一向一揆を起こさせ、上杉方を攻撃させる。

西上作戦

1572(元亀3)年10月3日、武田信玄が甲府を出陣。
朝倉義景・浅井長政へ書状を送り出陣を伝える。

山県昌景・秋山虎繁(兵数3,000)が信濃から奥三河へ侵攻、山家三方衆(田峯城主の菅沼定忠、長篠城主の菅沼正貞、作手城主(亀山城)の奥平貞勝)と合流する。三河の柿本城、遠江の伊平城、井伊谷城を攻略する。

武田信玄本隊(兵数22,000)は信濃から青崩峠を越え、遠江へ侵攻する。犬居城の天野景貫が降伏して武田方につき、道案内を務める。

(※十月二十一日付 武田信玄書状の「当城(高天神城)主小笠原悃望候間、明日国中へ進陣、五日之内越天竜川、向浜松出馬、可散三ケ年之鬱憤候」【山梨県史】から、高天神城の降伏があったとの説も有り。)

10月13日、信玄は本隊を二手に分け、馬場信春(兵数5,000)が只深城を攻撃、二俣城へ向かう。信玄本隊(兵数17,000)は北遠江の天方城・一宮城・飯田城・挌和城・向笠城を攻撃、次々に占領する。

10月13日、信玄本隊は偵察に出ていた徳川軍の本多忠勝・内藤信成と一言坂で交戦、勝利する。徳川家康も出陣していたが浜松城へ退却する。(一言坂の戦い

本隊は追撃を行い、10月16日、二俣城(城主 中根正照)を包囲する。
11月に山県昌景の別働隊が合流する。

10月16日、二俣城の戦い
武田軍は川に挟まれた要害に苦戦するが、川から汲む水の手を絶ち、12月19日、降伏させる。

織田方の美濃岩村城では城主 遠山景任が5月に死去、妻のおつやの方(信長の叔母)が城主となっていたが、10月中旬におつやの方が武田方へ離反する。11月14日、信玄は下条信氏を派遣して岩村城を接収する。

11月19日、信玄が朝倉義景へ書状を送り、共同作戦を求める。
「殊に三河山家、美濃岩村は味方に属し、信長に対して敵となり、戦を始めています。このところご理解することが肝要です。」
(その後朝倉・浅井軍が織田領へ侵攻するが、虎御前山砦で秀吉に敗れ退却してしまう)

浜松城では織田からの援軍 佐久間信盛(兵数3,000)が到着。

元亀3年12月22日、三方ヶ原の戦い
二俣城を攻略した信玄(兵数25,000)が出陣、浜松城を通過して西進する。
徳川家康(兵数10,000)が浜松城から出陣、追撃に出たところを待ち構えて攻撃し、大勝する。

【三河物語】【甲陽軍鑑】の三方ヶ原の戦いを開く

【信長公記】
「家康公は陣の中央を切り破られ、軍勢の中へ乱れ入り、左へ逃れ、三方ヶ原の岸の道を一騎で退かれたのを、敵は先に待ち受け道を遮った。家康公は馬上から弓で射倒し、駆け抜け、御通りされた。これに限らず、弓の御手柄は今に始まったことではない。」

12月22日夜、徳川軍の大久保忠世が犀ヶ崖にいる武田陣へ夜襲をかける。

12月28日、朝倉義景から使者が来る。信玄は戦勝報告と朝倉軍が越前へ引き上げたことを非難し、再度出陣を要請する。

<北条家>

1570(元亀元)年、武田軍に伊豆の韮山城など諸城を占領される。

1571(元亀2)年、武田軍が駿河 深沢城を攻撃、占領される。

1571年10月3日、北条氏康が病死(57歳)。
北条家の当主となった氏政は機能しなかった上杉との越相同盟を破棄、支配圏を広げる武田と再び甲相同盟を結ぶ。

<上杉家>

1570(元亀元)年9月~12月、第十回関東遠征。武田の上野 和田城(城主 高崎城)を攻撃。

12月、上杉輝虎が出家して上杉謙信と改名する。

1571(元亀2)年10月、北条氏康の病没後、北条氏政が越相同盟を破棄する。
同時期に金山城の由良成繁が独立。由良成繁は72年に桐生城を占領、伊勢崎城、金山城、館林城まで支配下に置く。
北条との同盟は破棄となるが、北条家からの人質 三郎(景虎)は戻さずに継続して預かる。

1571年2月、越中 富山城を攻撃、占領。

1571年11月~72(元亀3)年4月、第十一回関東遠征。上杉謙信は厩橋城で越年する。
1572年閏1月、厩橋城西側の石倉城を攻略後、武田信玄が救援に進軍、利根川を挟んで対陣するが双方退却する。その後上野 倉賀野城を攻撃。

1572(元亀3)年5月、越中の椎名康胤が再び離反、加賀・越中の一向一揆衆が富山城を攻撃、占領される。

1572年9月、上杉謙信が越中に出陣。加賀・越中一向一揆に大勝し、富山城を奪還する(尻垂坂の戦い)。

1572年11月、織田と濃越同盟を結ぶ。

<伊達家>

1570(元亀元)年、相馬氏に丸森城を奪われる。

<最上家>

1570(元亀元)年頃、最上義光が家督を継ぐ(25歳)。
(最上義光の実質的な支配地域は山形城、長谷堂城であり、最上・村山両郡には天童、上山、東根氏などの国衆が独立して支配していた。)

<三好家>

1572(元亀3)年頃、大和の松永久秀が三好義継とともに離反、信長包囲網に加担する。

<毛利家>

1570(元亀元)年、毛利軍(兵数25,000)と尼子軍(兵数700)が布部山にて交戦、大勝する。敗れた山中幸盛らは信長の援助を受けるため京都へ向かう。

1570年、能島村上水軍が大友方につく。(1573年に再び毛利方につく)

1571(元亀2)年6月、毛利元就が死去(75歳)。隆元の嫡男 輝元(19歳)が家督を継ぐ。

<宇喜多家>

1571(元亀2)年9月、毛利・田村軍が宇喜多領の備中 佐井田城を攻撃するも、防ぐ。

1572(元亀3)年10月、毛利が東へ侵攻してきたため、浦上家(宇喜多直家含む)が足利義昭・信長を頼り毛利と和睦する。

<龍造寺家>

1570(元亀元)年3月、今山の戦い
大友宗麟の弟 大友親貞が大軍(兵数30,000)で龍造寺の佐嘉城(兵数3,000)を包囲。 8月20日未明、鍋島直茂が背後にまわり夜襲をかけ今山に布陣する総大将 大友親貞を討ち取る。その後も大友軍に包囲されるか10月、講和に持ち込み撤退させる。

この戦いにより大友軍の度重なる侵攻を食い止めることに成功し、勢力拡大のきっかけとなる。

1572(元亀3)年、残党勢力の東肥前 少弐政興を攻撃。

<大友家>

1570(元亀元)年、高橋鎮理(高橋紹運)が宝山城・岩屋城に入る。

1570年3月、今山の戦い。毛利との戦いが集結した大友宗麟は、毛利方についた龍造寺を攻撃。

大友宗麟の弟 大友親貞が大軍(兵数30,000)で佐嘉城(兵数3,000)を包囲。大友宗麟は後方の高良山に布陣。
8月20日未明、鍋島直茂が背後にまわり夜襲をかけ今山に布陣する総大将 大友親貞が討ち取られる。その後も包囲を続けるか攻略できず10月に講和する。

1571(元亀2)年、戸次鑑連(道雪)が立花城へ入る。高橋紹運とともに筑前を治める。

<島津家>

1570(元亀元)年1月、東郷氏・入来院氏を降伏させ、薩摩を平定する。

1571(元亀2)年6月23日、島津貴久が死去(57歳)。

1572(元亀3)年5月、木崎原の戦い。伊東軍(兵数3,000)が三山城から島津領の加久藤城攻略のため進軍。飯野城から島津義弘(兵数300)が出陣、兵を分け伏兵を配置。義弘は伊東軍に攻撃をしかけ、敗走して木崎原へ移動する。そこへ四方から伏兵が攻撃、伊東軍に勝利する。

この戦いで伊東軍は大将の伊東祐安ら5人、多くの地頭(国衆)が討ち取られる。領内の地頭も島津方につくなど一気に国力が弱まった。

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