戦国時代勢力図と各大名の動向ブログ

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康など戦国武将の年表と勢力地図まとめ

1582年(後半) - 83年<東国> 天正壬午の乱

戦国時代1582年の勢力図
更新日 20178/1/16

天正壬午の乱(1582年6月~10月)
信長の死後、空白となった旧武田領を狙い北条、上杉、徳川が争う。


※参考文献:『天正壬午の乱』平山 優 (著) 戎光祥出版、『歴史人 関東戦国争乱 2016年3月号』ベストセラーズ 80P

<徳川家>

6月2日、本能寺の変が起こり、家康一行が伊賀越えを開始。

6月3日、三河深溝城の松平家忠へ、家康が帰国後に西国へ出陣することが伝えられる。
「(家康一行が5月28日に堺へ向かう前)京都の酒井忠次より、家康は下向後は西国へ出陣すると申し来られた。旗指物は諸国は大きい旗をやめ、撓い("しない" 上部の横棒がない旗指物)になっていると申し来られた。」【家忠日記】
(家康は信長から援軍を要請されたと思われる。また旗指物の種類を織田軍に合わせるよう指示している。)

6月3日酉の刻(18~20時 ※夏至時刻)、三河深溝城へ本能寺の変の報せが届く。「京都にて上様が明智光秀、織田信澄別心にて自害、(知多半島の)大野より申し来られた」(翌日「信澄は根拠のない噂」と訂正)【家忠日記】

6月3日、家康一行が小川城へ入る。

6月4日、家康が信長の妻子を保護して安土城から日野城へ移った蒲生賢秀に書状を送る。
「その城を堅固に守るのは尤もです。…御尽力に大変満足しています。信長年来の御恩を忘れず、必ずや光秀を成敗すべきです。ご心配なく、そちらを守る事が大切です。」【6月4日付家康書状 山中家文書】
(昨日に妻子を保護した情報が近くの小川城へ届いていたと思われる)

6月4日、家康一行が伊勢湾を渡り帰国。岡崎城へ入る。

<以下【家忠日記】に沿った時系列>

6月5日、松平家忠に出陣準備が命じられる。伊勢・尾張の織田家から家康へ使者が来て、味方になることを知る。
6月6日、雨、一日待機。8日に東三河衆が岡崎へ到着すると伝わる。

6月6日、家康が岡部正綱に、駿河から甲斐へ入り穴山梅雪の領地を押さえるよう指示を出す。「下山へ移り、城を見立てて普請すべきである。」【寛永諸家系図伝】

6月7日、刈谷城主の水野忠重が京で討死との報せが届く(誤報)。
6月8日、去る5日大坂で織田信澄が切腹したと報せが届く。
6月9日、雨、家康が出陣を延期する。二条新御所から脱出して身を潜めていた水野忠重が岡崎へ帰還する。

6月10日、甲斐に留まっている織田家の河尻秀隆へ美濃に戻るよう伝えるため、使者 本多信俊を派遣する。【当代記】

6月10日、松平家忠に出陣は12日と伝わる。
6月11日、雨、出陣は14日まで延期となる。
6月12日、雨。

家康が甲賀の和田定教へ、伊賀越えの際に人質を出したことを褒め、身上を保証する起請文を送る。【6月12日付家康書状 和田文書】

6月13日、雨、松平家忠が岡崎城へ向かう。

6月14日、河尻秀隆のもとへ送った本多信俊が殺害される。
本多信俊は一揆が起きれば援軍を出すことを河尻秀隆に伝えるが、河尻秀隆は信俊が一揆を煽動して自分を討とうとしていると疑い、信俊をもてなした後の就寝中に長刀で突き殺した。【三河物語】

6月14日、家康・本多忠勝・石川数正が岡崎城を出陣、鳴海へ着陣する。

美濃の織田家臣 吉村氏吉に協力と人質の提出を要請する。
「この度京都の様体、是非のない事です。それについて上様の御弔いとして我らは上洛します。そのようなことで今日十四日鳴海に至り出馬しました。然らばこの節は御尽力すべきこと、水野長勝が口上しました。いよいよ喜ばしいことです。成就すれば本望です。」【6月14日付家康書状 吉村家文書】

美濃衆の佐藤六左衛門へも協力を要請する。
「仰るように、今度京都の成り行きは是非のない次第です。しかしながら若君様(三法師)がいらっしゃるので供奉致し、上洛し、かの逆心の明智を討ち果たす覚悟で、今日十四日鳴海に出馬しました。殊にその地の日根野、金森(長近)と相談されたこと、いよいよ専念してください。」【家康書状写 大日本史料】

伊賀者が家康のお供に参上する。
「六月十四日、家康が鳴海にて京都へ出発する時、伊賀者が鳴海に御出迎えして御供すべく申し上げた処、感激され、十五日に残らず御家に召し抱えられた。」【伊賀者由緒書】

6月15日、(織田信孝の)伊勢神戸家から、京都にて信孝・丹羽長秀・池田恒興が明智を討ち取ったと報せが入る。
6月17日、酒井忠次の軍が津島へ進軍する。
6月19日、秀吉から上方を平定したので早々に帰陣されよとの書状が届く。

天正壬午の乱

1582(天正10)年6月、家康は織田政権(信雄・信孝)に旧織田領へ侵攻するための同意を求める。
秀吉は家康に信濃・甲斐・上野を敵方へ渡さないよう軍勢を出して支配するようにと伝える。【7月7日付秀吉書状 新修徳川家康文書の研究】

甲斐では6月18日に河尻秀隆が一揆に殺害される。一揆は北条方だったため、家康は穴山家来に命じて一揆を鎮圧させる。

6月21日、家康が浜松城へ帰城する。

6月22日、家康が甲斐の一揆を鎮圧した穴山家来の有泉大学助の戦功を称える。
「この度刈坂口、郡内一揆など東群に至る蜂起のところ、各々示し合わせ、(武田旧臣の)大村三右衛門尉を始め残党などを悉く討ち取ったそうで、とても喜ばしいことです。…尾張美濃の事は異議なく済みました。昨日二十一日帰着し、この方面で軍勢十万余りを調えました。国の準備が出来次第向かうのでそのつもりでいるように。」【伊藤本文書】

6月27日、酒井忠次が信濃 伊那郡へ侵攻開始。伊那郡の下条頼安が徳川方につく。
6月28日、大久保忠世が甲斐へ侵攻。一揆の蜂起が続いていた甲斐国内を平定する。

7月2日、家康が浜松城を出陣する。
7月8日、駿河江尻城から大宮を経て9日、甲斐甲府へ到着する。(その後秀吉から7月7日付の書状が届く)

7月、酒井忠次が北上するも諏訪郡の高嶋城 諏訪頼忠を調略できず、進軍できなくなる。
7月中旬、徳川が支援する小笠原貞慶が深志城を攻撃、占領する。しかし小笠原貞慶は徳川軍を深志城に入れることを拒否する。

7月19日頃、千曲川で上杉と対峙していた北条軍(兵数43,000)が上杉軍と停戦。7月29日、北条軍が甲斐方面へ進軍する。

佐久郡で唯一徳川方の国衆 依田信蕃(よだのぶしげ)は春日の三沢小屋砦に籠城する。

高嶋城 諏訪頼忠、保科正直ら国衆は北条方となり、北条氏直軍が南下したため酒井忠次・大久保忠世ら徳川七手衆は甲斐へ、奥平信昌・下条頼安らは伊那郡 飯田城へ撤退する。

8月1日、徳川七手衆が北条軍の追撃をかわし甲斐へ撤退する。

北条氏直本隊が甲斐へ侵攻、若神子城に陣を構える。
8月10日、家康が甲府を出陣、新府城に入り本陣を置く(兵数8,000)。対峙は80日間続く。

8月12日、鳥居元忠(兵数2,000)が背後から侵攻してきた別動隊 北条氏忠(兵数10,000)と合戦。二手に分かれていた北条軍を攻撃、勝利する(黒駒の戦い)。

家康は討ち取った首500を槍に刺し、物見場へ並べて北条軍へさらし首とした。【三河物語】
この勝利により保科正直ら旧武田衆を味方につける。

8月22日、織田政権が木曽郡の木曽義昌の要請を受け入れ、領地安堵と派兵を認める。これにより木曽義昌が徳川方につく。

8月28日、若神子城南の北条の兵糧庫である大豆生田砦を落とす。
9月、若神子城北東の獅子吼城を落とす。
9月、依田信蕃が北条についた真田昌幸に領土の安堵を条件に徳川方につかせる。

9月13日、家康が宇都宮国綱へ、織田政権から援軍として秀吉・丹羽長秀・柴田勝家が来ることを伝える。

10月、佐久郡で徳川が優位に立つ。徳川軍、真田昌幸、依田信蕃が佐久郡の諸城や碓氷峠を占領、北条本隊の補給路を断つ。

10月15日、京では秀吉により信長の葬儀が行われる。しかし織田信雄・信孝・柴田勝家は参列せず秀吉と対立が深まる。

10月28日、織田政権から氏直と講和するよう指示を受ける。【水谷勝俊宛 家康書状 譜牒余録】
(11月1日、秀吉と柴田勝頼の対立により織田政権は家康への援軍を中止する)

10月28日、氏直から和睦の申し入れがあり、北条との講和が成立。

信濃・甲斐は徳川領、上野は北条領(真田の沼田領は切り取り次第)とし、翌日家康次女の督姫を北条氏直に嫁がせて同盟を結ぶ。

1583(天正11)年2月20日、依田信蕃が徳川に抵抗する岩尾城(城主 大井行吉)を攻撃するも銃撃に合い戦死する(36歳)。嫡男康国が松平康国として小諸城を継ぐ。

1583年4月、真田の上田城の築城を支援する。

<北条家>

1582(天正10)年6月11日、本能寺の変の報せを知った北条氏政が滝川一益に、遠江より京都の様子が連続で報せが入っているが、毛頭疑心はないと伝える。

6月15日、氏政が渡邊庄左衛門へ甲斐都留郡へ早々に移り、武田旧臣や因縁のある者を集め決起するよう促す。

天正壬午の乱

1582(天正10)年6月12日、北条氏直が上野へ出陣準備を行う。
6月16日、滝川一益に宣戦布告する。

6月18日、先手の北条氏邦が上野へ進軍。金窪原で滝川軍と交戦し敗北する。

6月19日、北条氏直(兵数50,000)が厩橋城から迎撃に出た滝川一益(兵数18,000)を攻撃、勝利する(神流川の戦い)。追撃により滝川隊を壊滅させる。

元厩橋城主の北条高広は北条に服属、また安中、一宮、箕輪の国衆を服属させる。

7月9日、真田昌幸を配下に入れる。
7月12日、北条軍が碓氷峠を越え信濃へ侵攻する。

7月13日、木曾義昌から北条に服属すると伝えられる。

7月14日、氏直軍(兵数43,000)が川中島の千曲川で上杉景勝軍(兵数8,000)と対峙する。上杉方の海津城主 春日信達が内通して寝返る計画だったが上杉方に露見し、春日信達は処刑されてしまう。
これにより氏直は上杉軍と停戦に合意。7月29日、北信濃攻略を諦め、真田昌幸・松田憲秀に殿軍を任せて甲斐方面へ進軍する。
高嶋城 諏訪頼忠、保科正直らの国衆を味方につける。

8月6日、氏直本隊が甲斐に入り、若神子に本陣を置く。新府城の徳川軍(兵数8,000)と対峙する。

8月、新府城を背後から狙う別動隊が各所で徳川軍に敗退。そのため増援軍として北条氏忠(兵数10,000)が甲斐へ侵攻する。
8月12日、北条氏忠が兵力を分散していたところを鳥居元忠(兵数2,000)に攻撃され、敗北(黒駒の戦い)。これにより甲斐の旧武田衆が徳川につく。

8月22日、木曽郡の木曽義昌が徳川につく。
8月28日、若神子城南の兵糧庫としていた大豆生田砦が徳川軍に落とされる。

9月、若神子城北東の獅子吼城が徳川軍に落とされる。
9月、依田信蕃が真田昌幸を調略し徳川方へ、また高遠城の保科正直も徳川方につく。
9月、家康の呼びかけにより、佐竹義重・宇都宮国綱が館林城を攻撃。さらに古河へ侵攻される。

9月、氏政が小田原から駿河の沼津城へ進軍するも、徳川軍に敗北。

10月、徳川軍、真田昌幸、依田信蕃が佐久郡の諸城や碓氷峠を占領、補給な路を断たれる。
10月、佐竹義重が上野国へ侵攻、北条方の館林城を攻撃する。

10月28日、氏直が和睦を申し入れ、徳川と講和が成立。信濃・甲斐は徳川領、上野は北条領(真田の沼田領は切り取り次第)とし、翌日家康の次女督姫を北条氏直に嫁がせることが決まり同盟を結ぶ。

1582年6月11日、氏照が下野 小山城を攻撃、占領。

1582年、上野侵攻時、由良・長尾氏を再び服従させる。
1582年、 上野 厩橋城の北条高広が離反。
1582年、第5代古河公方の足利義氏が死去。氏政は後継者を立てず。

12月、真田領の中山城を攻略、城の拡張工事を行う。

1583(天正11)年、佐竹義宣が小田氏を降伏させ、小田氏一族の岡見氏が北条に頼る。岡見氏の牛久城は隣国の国衆らに統治させる。
1583年9月、厩橋城の北条高広を攻撃、降伏させる。

1583年11月、北条から城の借用を求められた由良・長尾氏が領地没収と判断し、籠城する。両名は捕らえられ、小田原へ送られる。(85年1月に帰城)

<上杉家>

6月3日、織田軍の攻撃により魚津城が落城する。

「魚津城を四方より攻め寄せる。城兵が話し合うには、たとえ防戦しても景勝公はすでに馬を収められ、再度の出馬も間がない。そのうえ兵糧も絶え力戦も叶わず、然る後は敵に生け捕られ武名を汚すのも口惜しい。各一同腹をかき切って名を後世に残そうと言う。それぞれが尤もと一決し、板札に姓名を書き、耳輪に穴を空け、姓名札を結びつけてそれぞれ腹十文字にかき切って同じ枕に死んだ。忠死した者は中条景泰、竹俣慶綱、吉江信景(以下12名)である。」【上杉家御年譜】

6月5日、柴田勝家が宮崎城を攻略する。
6月6日、本能寺の変の報せが織田軍に伝わる。春日山城攻略へ侵軍していた織田の森長可・滝川一益、また柴田勝家らも撤退し、危機を脱する。

6月8日、上杉景勝が家臣の色部長実へ、上方で凶事があり織田諸将は悉く敗軍になったと伝える。【上杉家御年譜】

1582年6月9日、景勝が蘆名の使僧に、播磨・摂津の堺で秀吉が対峙しているところ後詰が来て秀吉を生け捕り討ち取った、信澄が心変わりして信長は切腹した、と伝える。(遠方のため正確な情報が伝わっていなかった)
また家臣蓼沼藤七郎へも上方の様子は事実だと伝える。【蓼沼文書】

天正壬午の乱

1582(天正10)年6月中旬、景勝が北信濃の国衆へ調略を開始。

海津城(城主 春日信達)、長沼城、飯山城を支配下に置く。景勝が春日山城から出陣、川中島四郡を抑えて海津城へ入る。

6月下旬、真田昌幸が服従を申し出る。
6月下旬、木曽義昌が守る深志城を小笠原洞雪斎に攻撃させ、占領する。

7月9日、真田昌幸が北条方につく。
7月中旬、徳川方の小笠原貞慶に深志城を奪われる。

7月12日、北条軍が碓氷峠を越え信濃へ侵攻する。
7月13日、海津城主の春日信達が北条方へ内通していたことが発覚。春日信達を処刑する。

7月14日、景勝は北条氏直軍と川中島の千曲川で対峙。春日信達の調略に失敗した北条氏直は上杉軍との停戦に合意。7月29日、北条軍は引き返し甲斐方面へ進軍する。

8月9日、景勝は北信濃の諸城を抑え、新発田重家の乱鎮圧へ向かう。

景勝は新発田城を包囲するが、新発田城周辺は湿地帯で攻撃は困難なため、退却する。

その後上方では秀吉と柴田勝家が対立、両者から協力を要請される。

1583(天正11)年2月7日、景勝は秀吉・織田信雄へ誓紙を送る。

1583年3月17日、賤ヶ岳で柴田勝家と対陣中の秀吉から、越中の佐々成政を攻撃するよう要請が届くが、新発田重家と交戦中の上杉軍に余力はなく出兵を留まる。

賤ヶ岳の戦いで秀吉が勝利すると、景勝が派兵しなかったことから、秀吉から互いの誓約は反故になったと伝えられる。
景勝は秀吉へ使者を送り太刀や馬を献上、服従を伝える。

1583年8月下旬、景勝が新発田領へ進軍。撤退時に湿地帯で重家の追撃に合い、大敗する(放生橋の戦い)。

<真田家>

天正壬午の乱

1582(天正10)年6月、本能寺の変後、沼田城内では城の明け渡しを求めた藤田信吉が滝川儀太夫(一益の甥)と対立するが、諦めて城を退去、上杉家を頼り越後へ向かう。

沼田城は滝川一益から真田昌幸へ引き渡され、6月13日、昌幸が城を請け取る。

6月末、上杉へ服従を申し出る。
7月9日、北条氏直が上野に侵攻したため北条に服従する。真田昌幸が旧武田家臣の上杉方海津城主 春日信達を調略し、寝返り工作を行う。

7月13日、春日信達の寝返りが上杉方に発覚し、春日信達は処刑される。その後北条軍は甲斐へ進軍する。

9月、真田昌幸は家康から領土の安泰を提案され、北条を離反する。

10月、真田昌幸は旧武田家臣 依田信蕃とともに碓氷峠を占領。信濃国に侵攻している北条軍の補給路を断つ。
10月29日、徳川と北条が同盟を結び、家康の独断で沼田領は北条の切り取り次第(攻撃を許可する)とされた。

1582(天正10)年12月、北条軍が徳川についた真田の中山城を攻略し、城を拡張する。 沼田城と岩櫃城が分断される。

1583(天正11)年、徳川配下として小県郡の平定を開始。室賀領を攻撃、室賀正武が真田配下となる(翌年暗殺される)。
1583年3月、上杉領の虚空蔵山で景勝軍と戦い、昌幸が勝利。
1583年4月、家康の支援を受け上田城の築城を開始。

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