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戦国資料 - 戦国時代の暦


更新日 2018/3/25
戦国時代の暦は太陰太陽暦

日本では明治6年(1873)1月1日から現在の太陽暦(グレゴリオ暦)が採用されましたが、それ以前の戦国時代などは太陰太陽暦が使われていました。

太陰太陽暦は、月の満ち欠けをもとにした暦(太陰暦)で発生する日数不足を調整した暦になります。

月の満ち欠けが一巡する朔望周期は約29.53日であるため、これをもとに1か月を29日または30日とすると1年は約354日となり、太陽の周期に対して11日足りなくなります。このままでは年ごとに季節がズレてしまいます。

そこで3年経つと33日足らなくなる期間を埋めるため、3年に一度閏月を加えてその年を13ヶ月とすることで暦が太陽の周期に合うように調整しました。これが太陰太陽暦になります。

例えば、本能寺の変が起きた1582年前後の暦を見るとこのようになります。

本能寺の変前後の閏月

天正8年には閏3月、天正11年には閏1月が加えられています。

太陰太陽暦は基本的には月の満ち欠け(約29.53日)に合わせるので月末の日付は29日(小の月)または30日(大の月)となります。31日という日付はありません。そして3年に一度、閏○月という一か月が加わります。
※二十四節気の中気を基準とした置閏法によって閏月を挿入
※閏月は2年に一度になる場合もあり

このように閏月を入れて調整することでトータルは太陽の周期に合うのですが、現在の日付と比べると誤差があり季節感のズレが起きることになります。

戦国時代の出来事を例に挙げてみます。

桶狭間の戦い
旧暦:永禄3年5月19日
グレゴリオ暦:1560年6月22日

三方ヶ原の戦い
旧暦:元亀3年12月22日
グレゴリオ暦:1573年2月4日

本能寺の変
旧暦:天正10年6月2日
グレゴリオ暦:1582年7月1日

石田三成襲撃事件
旧暦:慶長4年閏3月4日
グレゴリオ暦:1599年4月28日

関ヶ原の戦い
旧暦:慶長5年9月15日
グレゴリオ暦:1600年10月21日

※ネット上ではユリウス暦で西暦表記をしている場合もありますが当ブログではグレゴリオ暦で表記します。

このように現在のグレゴリオ暦に変換すると1か月前後の違いがあります。
桶狭間の戦いは梅雨入りしていますし、関ヶ原の戦いは秋本番の季節に起きています。また正月も遅れがあり、例えば慶長5年の元旦が1600年2月15日であったりします。

ただ旧暦は月の満ち欠けをもとにしているので、旧暦の1日は新月、15日は満月だったことがわかります。本能寺の変の前夜は新月、関ヶ原の戦いの夜は満月となります。本能寺へ向かう明智光秀にとっては好都合だったわけです。

旧暦と西暦の不一致

旧暦とグレゴリオ暦の表記でややこしくなるのは、元亀3年12月22日の三方ヶ原の戦いのように年末の出来事の場合です。

元亀3年は1572年と覚えるとわかりやすいのですが12月はグレゴリオ暦では先に年を越して1573年となるため、三方ヶ原の戦いを西暦表示すると1573年2月4日になります。

当ブログでは通常は「1582(天正10)年6月2日」という二重表記としていますが、年末の出来事で西暦が翌年になる場合は西暦を記載せず旧暦表記のみとしています。

ユリウス暦とグレゴリオ暦

欧米では紀元前45年1月1日にローマ帝国のカエサルが、1年を365.25日とする太陽暦のユリウス暦を導入し、長い間ユリウス暦が使われていました。ユリウス暦は4年に一度2月29日となる閏年を加えてその年を366日とする暦になります(100年ごとに0.8日多くなる)。

しかしユリウス暦が作られてから1500年も経つと約10日ほどズレが生じたため、1582年にローマ法王グレゴリオス13世がグレゴリオ暦へ改暦しました。

グレゴリオ暦は400年に97回の2月29日となる閏年を入れる暦で、太陽の平均周期より1年で26.821秒長いだけという高精度な暦になりました。

このグレゴリオ暦はカトリック系の国には短期間で広がりましたがそれ以外の地域は遅く、新教国のイギリスは1752年、ロシアは1918年にグレゴリオ暦を採用しています。

日本の暦

日本では平安時代に大陸から太陰太陽暦の宣明暦が伝わり、以降長い間使用されます。しかしその後は各地で宣明暦をもとに三島暦・伊勢暦・会津暦など、独自に暦が作成されていました。

どの暦も太陰太陽暦ですが閏月を加える時期や29日(小の月)、30日(大の月)の決め方が異なっていて、地方のカレンダーによって日付に違いがありました。

そのため本能寺の変の前には関東で使われていた三島暦を織田信長が朝廷に勧めたことで改暦問題が起きています。結果は信長が討たれたこともあり、朝廷が使用していた宣明暦が継続されることになります。

その後江戸時代になると宣明暦では太陽の周期と2日のズレが発生していたことから、西洋の天文学を取り入れ貞享暦、宝暦暦、寛政暦、天保暦と4度の改暦が行われます。そして明治6年(1873)に現在のグレゴリオ暦が採用されることになります。

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