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戦国資料 - 戦国時代の時刻制度


更新日 2017/5/17
戦国時代の時刻制度

戦国時代は日の出と日没を基準とする「不定時法」が使われていました。

明るい時間帯と暗い時間帯をそれぞれ6等分して一刻(いっとき)としました。
(貞享暦(1684年~)では日の出時刻より36分前の薄明かり時点が昼夜の境と決められます)

「不定時法」は季節によって一刻の長さが変わるのが特徴です。一年を二十四節気(にじゅうしせっき。冬至・大寒・啓蟄・春分・夏至・立秋など)の24で区切り、約15日ごとの一節間を同じ時刻で表しました。
夏の昼は長く、冬の昼は短いため、夏の一刻は約2時間30分となり、冬の一刻は約1時間40分となります。

例えば京都の場合、夏至(6月21日頃、戦国時代の旧暦では5月中(年により日が異なる))の日の出時刻は4時42分頃となっていて、「卯(う)の刻」は午前4時~午前6時頃になります。

一方冬至(12月21日頃、戦国時代の旧暦では11月中)は日の出時刻が7時01分頃のため、同じ「卯の刻」でも午前6時~午前8時頃を指します。

一刻の呼び方は方角でも使用されていた「十二支」を当てはめる十二辰刻法があります。
午前0時前後を「子(ね)の刻」、日が昇る頃を「卯(う)の刻」、正午頃を「午(うま)の刻」、日没頃を「酉(とり)の刻」としました。

時間を細かく表す場合は「上刻・中刻・下刻」をつけ、「午の上刻(11時、または11時過ぎ)」「卯の上刻(5時過ぎ、または夜明け前)」などと呼びました。

江戸時代には細分化して一刻を4分割するようになり、「午の四刻(午四つ)」などと表します。怪談話に登場する「草木も眠る丑三つどき」(春分・秋分時期なら午前2時~2時半)が知られています。

呼び方は十二辰刻法の他に、4~9までの数字を当てはめて表す時鐘/数読み法があります。

江戸時代に入ると3代将軍家光の時に江戸に鐘楼を設置、その後全国に時の鐘が設置され、鐘の音の回数で庶民に時刻を知らせていました。(中世では【多聞院日記】などに記録があるように、寺院が鐘や法螺を用いて時報の役割を担うことがあったと考えられています)

子の刻は鐘を9回鳴らすので「九つ時」、卯の刻は6回なので「六つ時」、酉の刻も6回で「六つ時」と呼びます。1日に同じ数が2回あるため、「暁」「昼」「夜」などを付けて区別されることもあります。

江戸時代の元禄期から登場する「おやつ」の語源は「八つ時」で、時刻は午後2時前後を指します。当時の人々は1日2食だったため、空腹時の「八つ時」に間食を食べる習慣がありました。

その後明治時代に入ると明治6年1月1日、太陰太陽暦からグレゴリオ暦への改暦と同時に現在の定時法が定められることになります。

※春分・秋分の昼間時間は実際には12時間より10分程度長くなりますが、簡略化して午前6時~午後6時としています。

<十二辰刻法>※春分・秋分日の場合

子(ね)の刻 午後11時~午前1時
丑(うし)の刻 午前1時~午前3時
寅(とら)の刻 午前3時~午前5時
卯(う)の刻 午前5時~午前7時
辰(たつ)の刻 午前7時~午前9時
巳(み)の刻 午前9時~午前11時
午(うま)の刻 午前11時~午後1時
未(ひつじ)の刻 午後1時~午後3時
申(さる)の刻 午後3時~午後5時
酉(とり)の刻 午後5時~午後7時
戌(いぬ)の刻 午後7時~午後9時
亥(い)の刻 午後9時~午後11時

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