戦国時代勢力図と各大名の動向ブログ

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康など戦国武将の年表と勢力地図まとめ

【三河物語】【甲陽軍鑑】三方ヶ原の戦い


【三河物語】「三方ガ原の戦い」(現代語訳)

「元亀三年十二月二十二日、(武田軍が)浜松から三里のところへ進軍したので家康が出陣する。"合戦しよう"と仰せられると、それぞれの家老衆は "今日の合戦はいかがでしょうか。敵の人数は三万ほどと見えます。信玄は老武者であり度々の合戦に慣れた者です。御味方はわずか八千くらいでしょうか 。"と申し上げた。

家康は、"それはそうであるが、多勢で我が屋敷の裏口を踏み破って通ろうとするのに、中にいながら出て咎めない者があろうか。負けるとしても出て咎めるであろう。そのように我が国を踏み破って通るのに多勢だからと言ってなぜ出て咎めないというのか。とにかく合戦をせずしてはおけないだろう。戦は多勢無勢によらず、天道次第である。"
と仰せられた。皆は仕方がないと思い、攻め寄せた。

敵を祝田の坂下へ半分過ぎでも引き下ろして攻めかかったならば、たやすく勝てたものを、はやり過ぎて早く攻撃してしまった。信玄は度々の合戦をしていたので魚鱗の陣を敷き待ち受けた。家康は鶴翼の陣を敷いたが、小勢だったので手薄だった。

信玄はまず郷士たちに小石を投げさせた。しかし家康の軍は相手にせず、兜のしころを傾けて攻めかかると、すぐに一陣、二陣を切り崩した。また新手が掛かるのを切り崩し、信玄の旗本まで攻め掛かった。信玄の旗本からもときの声を上げて攻めかかると、わずか八千の軍勢なので、三万ほどの大敵に骨身を砕いてせりあったが、信玄の旗本に攻め返され、敗北した。

家康は慌てることなく小姓衆を討たせまいと思われ馬を乗りまわされ、兵を丸くして退かれた。(後略)」

【甲陽軍鑑】品第三十九「三方ヶ原の戦い」(現代語訳)

「(元亀三年)壬申十月中旬に山県三郎兵衛(山県昌景)は信州伊那へ出陣し、東三河へ出て、信玄公が遠州方面へ御発向し合流する間に交戦などがあった。信玄公は十月中旬に甲府を出発し遠州の只来、飯田両城を落としてそこで仕置きをされた。

乾城主の天野宮内右衛門に遠州の見張りを命じられた。久能城の見回りの時、家康衆の侍大将、三ヶ野の川に四千ほどの軍勢が出陣していた。信玄公は"あれを逃さないように討ち取れ"と命じられると、家康衆は引き上げ、甲州武田勢はそれを食い止めようとした。(中略)

そこに本多平八郎(本多忠勝)そのとき二十五歳だが、家康の配下で度々の功名があり、それは武田家へも届いていた。平八郎は兜に黒い角を立て命を惜しまず敵味方の間へ乗り入れ、退却する様子は甲州の足軽大将原美濃守、横田備中、小幡山城、多田淡路、山本勘助この五人以来の信玄公の御家にも多くいない人物と似ている。(中略)

その後、二俣城へ取り詰めて攻めるところ、四郎勝頼公(武田勝頼)、典厩(武田信繁)、穴山殿(穴山梅雪)の三人の大将で二俣を攻められた。(中略)

典厩、穴山、勝頼の三名に多くの兵を預け二俣の中根平左衛門を攻められた。家康の後詰の抑えに馬場美濃守(馬場信春)の手勢の雑兵七百ほど、小田原北条氏政衆の千名、合わせて千七百ほど、次は御旗本組を添えて四千ほどは浜松の抑えとした。そこで家康は八千の軍勢で後詰に向かうが川(天竜川)を渡り早々に引き上げた。(中略)

中根平左衛門は二俣城の水の手を取られ降参し、城を明け渡して浜松へ逃れた。水の手は信玄公の工夫がいくつもあった。二俣城の番には信州先手侍大将の芦田下野(信守)を差し置かれた。こうして十二月二十二日に浜松の三方ヶ原まで押し寄せられた。その日は一戦あるべしと二十二日の朝、信玄公は軍神へ御歌を遊ばされた。
"ただたのめたのむ八幡の神風に浜松のえはた折れざらめや"

そうあったが、合戦はなさらないということだった。理由は、家康は海道一番の弓取であり、若手の武士でも家康一人優れている。その上信長の加勢が九隊加わり、しかも岡崎、山中、吉田、白須賀まで抑え信長の家臣が在陣していると聞き、また家康の叔父水野下野(水野信元)も途中に控えている。

きっと家康と合戦をして勝利しても、敵が大軍をもって疲れた味方へ攻めかけられれば必ず信玄は敗北してしまう。敵の居城にまで深く進み、負けてしまうと大河や山坂を越え退くこともできず、一騎一人残らず討ち取られてしまう。若い時より負けることなく、信玄勝利の誉れは全て水になってしまう。歳をとってからの判断違いとあれば恥辱、末代までの悪名となろうと仰せられる。

馬場美濃、勝頼、山県の三名に応対させ今日は山際まで引き返そうと命じられた。

(上原能登守が三方ヶ原の家康の軍勢を見ると敗色の兆しがあると信玄に報告する。次に室賀入道が偵察すると合戦の勝利は間違いないと報告する。)

信玄公は小山田兵衛尉(小山田信茂)に合戦を始めるよう命じられた。そのとき申の刻(午後4時頃)に合戦が始まった。様々深いお考えがあってのことだった。

家康勢はさすが名高い弓取の武士であり、九隊のうち八隊が戦っていた。中でも山県三郎兵衛の隊には家康の旗本が攻め掛かって三町ほど後退させた。三河山家三方衆(昨年徳川方から武田方についた奥平・田峰菅沼・長篠菅沼の三家)は日頃家康の手並みを知っているので三郎兵衛の先に四町ほど逃げ出した。

家康のおば婿の酒井左衛門尉(酒井忠次)も山県へ攻めかかる。左翼では小山田隊が三町ほど追い散らされたが馬場美濃が盛り返し勝利した。

山県隊はふだんと違って大きく崩れたが、勝頼公が大文字の小旗を押し立て横筋から攻撃し、家康を切り崩されたので、山県隊も前進し酒井左衛門尉の隊へ攻めかかった。

この時信玄公は小荷駄隊の甘利隊に横槍を突けと命じられたので、甘利隊の米倉丹後(重継)は小荷駄を捨て攻めかかった。酒井左衛門尉が崩れたので酒井隊は戦わず崩れた。

信玄公の御旗本、脇備、後備は少しも戦いに加わらず、見物をしているようだった。
ついに家康は遅れをとり敗北となった。

この合戦で先手、二番手の合わせて十四隊だけで戦ったが、信玄公は勝利となれば信長は計略をもって今切(浜名湖の湖口)の辺りにいて、第二の合戦をすることになると仰せられ、脇備を先へ動かし、後備を脇に動かし、離れた場所と近くにかがり火をたいていたが、敵は攻めかかってくることはなかった。

一番手で五千の軍勢で戦った山県隊は十三の首しか討ち取っていないが、二番手の勝頼公は千に満たない備えで六十三の首を取った。

元亀三年壬申十二月二十二日、遠州三方ヶ原の御一戦とはこれである。法性院信玄公が五十二歳の御時であった。

二十三日の朝、家康は浜松から三方ヶ原へ足軽衆を出し、くなぐりという場所へ軍勢を少し出した。その日穴山殿が見張り番だったので、穴山殿衆の有泉大学(平三昌輔)、保坂常陸(忠文)、同弟の掃部が、馬足軽で攻めかかると敵は少しも戦わず逃げ散った。三騎の侍に歩兵四、五人が踏み倒され首をとられた。

このようなところに穴山殿、四郎殿、典厩、逍遙軒(武田信廉)、家老衆の馬場美濃、山県三郎兵衛、内藤修理(内藤昌豊)、小山田兵衛尉、小幡、真田を始め、浜松城を攻められ、もっともなことだと言っていた。

高坂弾正は、"みな間違ったことを言っている。信長と家康は密談があって、浜松から美濃岐阜の間には信長衆が出陣して陣取りしていることは確実である。ただ今浜松を攻めているが、早くても二十日もかかるだろう。その間に信長が後詰をし、本坂へ五万ほど、今切筋へ三万も出陣するだろう。

美濃、尾張、伊勢、近江、山城、大和、河内、摂津国、丹波、播磨、若狭、丹後、家康領の三河、遠江を添えて十四ヵ国が敵になる。(中略)
そういうことで初めて参る大敵へ無駄にかかって一戦しない方がよい。相手からはとても一戦はすることはないだろうから対陣は長くこの三方ヶ原に長陣を張り、人馬が不自由になるうちに越後の輝虎が去年九月より家康と内通しているので、謙信はまた上野か信州へ出陣するのは疑いがないのである。" と高坂弾正が申し上げると、

十二月二十四日には遠州刑部(三方ヶ原の北にある細江町中川)へ陣を張り越年された。」

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