戦国時代勢力図と各大名の動向ブログ

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康など戦国武将の年表と勢力地図まとめ

【フロイス日本史】の沖田畷の戦い


<開戦前の動き>

「薩摩国王の弟、中務(以下、島津家久)が高来に移ると、有馬晴信はただちに兵士を率いて彼のもとに駆けつけた。薩摩の側からは、つねに毎日新しい兵士が高来に渡ってきた。

有馬の軍勢はそこから、島原から1里近く離れた安徳城に向けて出発した。敵との最初の交戦に入るためであった。こうして暗黒の水曜日に全軍は島原の周囲に布陣した。島津家久が当時既に4,000人近くに達していた兵を率いて位置につき、有馬殿が1,000人前後の兵を率いて陣を構えた。

龍造寺隆信はさらに、約50隻の船で、鍋島殿という総大将と5,000の兵を島原城に入れるため派遣した。だが薩摩の多数の船舶のために、そこに上陸することができなくて、三会城に入らざるを得なかった。(このとき島津軍の追撃を受ける)

(有馬領内では各地から総動員され、老人でも戦える者は駆り出された。)

(宣教師たちは1ヵ所に兵力を集めているので、千々石城(釜蓋城)に入った龍造寺軍に他の町村に侵攻され、有馬城を落とされることを怖れた。)

(木曜の朝(和暦3月23日朝)、龍造寺軍から逃亡した兵が伊佐早城に全軍が入ったと伝える。)

我らの味方の陣営には有馬の軍勢を合わせて6,300人を超すほどの兵士がいたであろう。 龍造寺隆信は12,000人の戦闘員を率いていたが、彼らは豪華に装い、また清潔で気品があり、戦場で錬磨された兵士であった。 彼は三人の息子たちを伴った。総大将は鍋島殿と呼ばれた。純忠の息子喜前も従軍していた。

軍勢の正面に、1,000挺近い鉄砲隊を伴ったが、大筒に似た大型の鉄砲であり、一人の男が肩に担いで運搬するには苦労するほどであった。その後に1,500の塗金の槍が続き、その後を長刀と大筒の火縄銃の別の隊列、および弓矢を携えた列が進んだ。さらに小型ではあったが二門の大砲を携えていた。

(島津の兵は埋め尽くされた敵の豪華な装備を見て意気消沈する)

隆信勢は三列をつくって布陣した。その一つは山に沿って前進し、他は通常の道を通り、いま一つは海岸に沿って進んだ。

(龍造寺隆信はある山頂に登り、少数の薩摩兵を見て大声で笑う)

島津家久は急遽、二門の大砲を船積するように命じた。 さらに、敵が戦の最中に島原城から出て味方の背後を突くことがないようにと、1,000人の兵を率いて島原城の正面に布陣するようにとの命令が下された。」

<開戦>

「そうこうする間に、隆信の軍勢が攻め寄せてきた。半月形に戦隊をつくり、瞬く間に島津家久・有馬の陣営を包囲してしまった。まず1,000挺の鉄砲の一斉射撃が加えられた。

戦闘は4月24日(和暦3月24日)の朝、金曜日8時に開始され、正午過ぎまで継続した。鉄砲隊による最初のいっせい射撃が終ると、槍による激闘が一時間にわたって行われた。 味方の軍勢とは比較にならぬほど多大であったので、龍造寺軍は我らの味方を一挙に押し切って、矢来の中に閉じ込めてしまった。

有馬の家老の船には二門の半筒砲が積まれており、一人のアフリカのカフル人が弾丸を込め、一人のマラバル人が点火していた。厄介な操作にもかかわらず砲は見事な協力のもとに発射を始めた。敵兵は大軍であったから当たり損ねることがなく、一群が木端微塵に粉砕された。

龍造寺軍の海岸の戦列の端の一隊は、それら二門の砲によって甚大な損害を被り、列を乱し出し、その一部は退却し遁走し始め、他の一部は中央から進んできた部隊に合流した。

敵はふたたび我らの味方の柵塁を攻撃して来た。薩摩勢はこれに応戦したものの、すでにいくぶん疲労しており、彼我の戦力は極度にちぐはぐであった。隆信勢は、多数の鉄砲を有していたが弓の数は少なく、長槍と短い太刀を持っていたのに反し、薩摩勢は鉄砲の数は少なかったが多くの弓を持ち、短い槍と非常に長い太刀を備えていた。

敵はつねに新たな戦力をもって攻撃し、次第にその数を増し、すでに三度にわたって味方勢をその柵の中に閉じ込めた。薩摩勢はかつて味わったことのないほどの危機を迎えることになった。

(島津家久が激励を飛ばし、恐れることなく突進せよ、と兵に伝える)

この言葉がまだ終わりもしないうちに、全員はあたかも初陣の功を競り合うもののように敵を求めて出て行った。

そして戦闘が開始された。それは熾烈を極め、両軍とも槍を構える暇もなく、手当たり次第に刀で相手の槍を切り払った。薩摩勢は、敵の槍など眼中にないかのように、その真っ只中に身を投じ、鉄砲も弾を込める間がないので射つのをやめてしまった。薩摩勢は弓矢の業を大いに役立たせて、少なからず敵を悩ませた。」

<龍造寺隆信の死>

「時に薩摩勢の中には、たまたま戦闘の現場から離れていた幾人かの兵がいたが、彼らはしばらく歩くうち、隆信が座乗していた駕篭の前方に現れた。

龍造寺隆信は後方で何か味方の兵士たちの間で争いでも起こったのであろうと考え、大声で言った。"今は味方同士が争ったりしている時ではあるまい"と。

肩で隆信を担いでいた連中は、敵が激しく槍で突いて来るので隆信を放置し始めた。隆信は立ち上がると、自分を名指す声を聞いた。川上左京殿という薩摩の若く勇敢な武将が隆信に襲いかかり、彼を槍で刺した。隆信はいとも不快な思いをしつつ、しかも両手を合わせてその槍を受けた。彼の首は、ただちに彼を槍で刺したのと同じ人の手で斬り落とされた。」

<龍造寺軍の敗走>

「一方、敵は我らの味方の砲撃に恐れをなして、列を乱して後退し、隆信がすでに戦死したとの報せを陣中で耳にすると、彼らの上には大いなる恐怖が襲いかかり、聖なる正義の鞭をその背に受けるべく敗走し始めた。身につけていたものを手当たり次第に放棄し始めた。ひどいのになると、より身軽になるために着衣まで脱いで素裸となり、それを見た人はまるで鹿だと言っていた。

薩摩勢はすでに疲労しており、追跡範囲を島原から三会城に至る1里強の距離に留めざるを得なかった。その間の道、田畑、平野では、死体と血と無残な傷、絶命しようとする者の悲しいうめき声だけだった。

薩摩勢の戦死者は250人内外で、有馬のキリシタンからは15、ないし20人の死者が出ただけであった。その他同じく相当数の負傷者が出た。隆信の首級は、その後まもなく、槍先に突き刺されたまま、島原の柵塁のそばに曝され、その後、薩摩の国主に見せるため、土産物として薩摩に持って行かれた。

龍造寺隆信を討ち取ったという吉報は、夜の10時に有馬城にもたらされた。千々石城(釜蓋城)は、それから二日後に城が明け渡され、そこに立て籠もっていた隆信の兵士達は遁走した。

島原の城主は、さっそく薩摩勢と協議を始め、城を明け渡した。最強、かつ不落を誇っていた深江城の連中はことごとく逃亡した。大野城は、城主はただちに投降し、敵が城に蓄えておいた軍需品はすべて鎮貴が受けることとなった。」

拍手[0回]

ブログ全体検索