戦国時代勢力図と各大名の動向ブログ

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康など戦国武将の年表と勢力地図まとめ

【フロイス日本史】の耳川の戦い


「この日向の国は、そこを流れる耳川と呼ばれる大河によって二分されている。嫡子(大友義統)が戦場へ出発するに先立って、その河川から豊後の国境にあった17の城は、豊後の嫡子の名と勢力を耳にしただけで降伏した。

豊後の国王と嫡子は、そこにある僧院や神や仏の寺社を焼却し蹂躙するようにと命じ、事実そのようにおこなわれていった。 豊後の兵士たちは、薩摩から援助に来る者に比べると少数であったが、高城という城を包囲することに決めた。

城の麓まで来ると、侵入しようとして見境なく攻撃を開始した。だが彼らは猛烈な抵抗に遭い、その果敢な企ては徒労に終わった。 豊後勢の一部の隊長たちは、嫉妬心から前線に進む者を援助せず、他の仲間たちを妨害した。

最初の攻撃で城を陥落できなかったことがわかると、城全体を包囲し、少なくとも飢餓によって陥落させる方が得策であると考えた。

この有様を見た薩摩の国王(島津義久)は、その城を失えば、薩摩国すら失う危険にさらされると判断したので、同城を援助することを決意した。

島津殿は、国内の全地方から人々の召集を図り、老若男女を問わず、いかなる逃げ口上も許さず、領国の自由のために参集するよう命令した。 人々が確信するところによれば、薩摩の国王は5万人近い人を召集した。」

「大軍を率いた薩摩国王は、自らの陣営に到着すると、それぞれ配置した分隊をして敵を攻撃させるように命じた。それは1578年の12月2日火曜日(和暦11月4日)のことであった。

薩摩勢は、豊後勢をおびき出せるかどうか見ようとして、若干の囮の兵をもって出動し始めた。2回にわたってこうした行動が繰り返された。

豊後勢は味方の優位を信じきって出陣することを欲した。彼らは敵の策略であることに気づくことなく、計略的に逃げるふりをして走る敵を追跡し、ついには自分たちに対して仕掛けられていた罠に陥るに至った。
すなわちすでに豊後勢がその陣地から出てしまうと、薩摩勢の全主力は、恐るべき勢いと果敢な気力とをもって彼らの上に襲いかかった。

各指揮官は、他の指揮官の言を受け入れることも互いに援助することなく、自分だけで戦うことを欲した。 彼らは他の仲間連中が滅ぼされることを欲し、彼らの名が失敗によって消され、戦功者と見なされないことを願っていた。

親賢はまだ自分の陣営に籠っていたが、心の底まで卑劣で下賤な恐怖心にとりつかれていた。彼は巨体の持ち主で、すでに40歳を越えているのに、空を切って逃走し、その年若い家来たちがやっと付いていけるほどであった。

敵方の戦闘における攻撃ぶりはすさまじく、哀れな豊後勢はまたたく間に背を向けて逃走し始めた。 ついには差し迫った危険と死の追跡から免れようと、水量豊かな耳川に身を投ずるほかはなく、ほどなく水中に没し溺死した。

このようにして豊後の国王は、何年もかかって獲得したものを一日にして失い、とりわけ彼は、名声、信用、それに一同の許における畏怖の念を失ってしまった。
これらの死者は、私が聞いたところでは、2万を超えたという。薩摩の軍勢とても8千名近い死者を戦場に残すことになった。」

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