戦国時代勢力図と各大名の動向ブログ

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康など戦国武将の年表と勢力地図まとめ

【イエズス会1599~1601年 日本諸国記】(1)細川ガラシャの死


<これら変革の時、大坂で生じたキリシタン夫人(細川)ドナ・ガラシアの悲しむべき死去について(第27章)>


7万人を超える住民を擁するこの大坂には全日本の主城があり、この城には若君(豊臣)秀頼様が住んでおり、また内府様がこの城に参集の奉行たちとともに、かつまた、通常は日本のほぼすべての諸侯が住んでいる。

城内には非常に立派な諸邸宅がある。このようなわけで、大坂には、変革の当初には多くの領主たちがいた。この領主たちは内府様とともに、自分の息子たちを関東の戦さに派遣していた。

ところで内府様に対する同盟が破れたので、すべての者が各自の邸に防塞を作った。家を守っていた人々や領主の家族、彼とともに赴いた君侯たちも同じことをした。そのわけは、奉行たちがこれらすべての者に対して、人質を提供し、若君(豊臣秀頼)の側の者に内府様に対して反抗するよう命じたからである。

このことについては大いなる変化と争いがあり、奉行たちは、敵として彼らを殺すために、そして、とどのつまりは、彼らに要求していた人質を提供させるため反抗していた者の邸を包囲するに至った。

この争いでは、丹後の国の、異教徒の領主長岡(細川)越中(忠興)殿の妻で、ドナ・ガラシアという名の一人のキリシタン夫人にきわめて悲しむべき事件が生じた。この夫人についてはたびたび(これまでに)書かれてきた。

この領主は関東の戦さに内府様に随行した諸侯の一人であった。そして彼は、自らのきわめて重立った身分の高い家臣の小笠原殿、および他の家臣に、自分の妻と邸宅を委ねた。

越中殿は至って誠実を好む人物であったので、邸から離れる時には、自らの家臣と邸を守っていた他の者たちに次のように命じるのが常であった。もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように、と。

このたびも、彼は同じ命令を己が家臣に対して託した。そこで奉行たちは、その同盟が露見した当日に越中殿の邸に伝言を送り、邸を守っていた者に対して、彼女の夫の安全のため人質として彼女をとるため、ただちにガラシアを引き渡すようにと言った。

(家臣)らは、ガラシア夫人を渡す意向はないと応えた。彼らは奉行たちが邸を包囲し、自分たちの女主人を捕えるつもりであることをすぐに察知し、彼女の名誉のため自分たちの主君の命令を実行に移そうと決意した。

こうして彼らは急遽ドナ・ガラシアにいっさいを知らせに行った。ドナ・ガラシアには何一つ異議はなく行動に移った。そして彼女は、常々よく整頓し飾っていた自分の祈祷室に入った。ただちに行灯に火を点すように命じ、死に支度をしながらひざまずいて祈り始めた。

そして少し祈った後、大いなる覚悟をもって部屋を出て来て、彼女とともにいたすべての侍女と婦人たちを呼び集め、我が夫が命じているとおり自分だけが死にたいと言いながら、皆には外に出るようにと命じた。皆が皆、彼女とともに死ぬつもりであると言って侍女たちは外に出ることを拒んだ。

なぜならば、このような場合にあっては、家臣は自分の主人とともに死ぬのが日本人の慣例であり体面である以外に、ドナ・ガラシアは侍女たちからあまりにも愛されていたので、全員がドナ・ガラシアと道連れに死ぬのを望んでいたからである。

しかし侍女たちは彼女の命令によって、やむなく外へ出た。ところが監視隊長(家老)の小笠原殿は、他の家臣とともに邸全体に火薬をまき散らした。侍女たちが全員屋外に出ると、ドナ・ガラシアはただちにひざまずき、たびたびイエズスとマリアの聖名を口誦んだ。

彼女自身、両手で(髪をかきあげて)首を露わにし、そして彼女の首は一撃のもとに切り落とされた。家臣たちはさっそくその首を絹衣で包み、その衣の上に火薬を置きながら、自分たちの女主人が死んだ同じ部室で死ぬことは非礼であるので前方の家屋に立ち去り、(そこで)全員切腹し、同時に火薬に火をつけた。

その火薬(の爆発)によって、ドナ・ガラシアが外へ出させたあの侍女たち以外の者は逃れ出せず、彼らおよびきわめて華麗なる御殿は灰燼に帰した。

侍女たちはこぞって泣きつつ、そのことがどのように生じたかをオルガンティーノ師のところへ語りに行った。このことで司祭と我ら全員は、同地方のキリシタン宗団にとって、あれほど(立派な)夫人、あれほどの稀有なる徳操の模範であった人を失ったことで、ひどく悲嘆にくれた。

この夫人はキリシタンとなった後は、幾多の書簡に記されたように、改宗においても生活においても感嘆すべきものがあった。自らの霊魂のことをいとも重んじ、デウスの冒漠になる行ないをすることを大いに恐れていたので、それはすべての司祭たちには大いなる驚きであった。

死に先立って彼女は、自らの死を予知していたかのように、再度告白し、書状によって、(死去する)日より前のことであるが、もし起こるべきことが起こったならばいかに処すべきかを確かめるために多くの疑問を提示し、質疑した。そしてその疑問に対する返答に大いに満足して心も落ち着いた。

かくしてその後、自らの罪ほろぼしにその死を受け入れつつ、強く、制し難いほどの勇気をもって、しかも我らの主の御旨といとも一体となって亡くなった。そして、彼女の徳操について、多くの中から、一人の都にいる司祭が彼女が死ぬ直前に、彼女についてこのような一通の書簡をしたためていることを述べよう。

「日々にガラシアは、徳操においても、また立派なキリシタンとしての実践においても、ますます卓絶してきている。彼女は至って悔俊(の業)を好み、去る四旬節には、自分の多くの侍女たちとともに深い信心をもって鋲釘のついた金具で鞭打ちの苦行を行なって、涙と血を流した。

彼女は慈善事業や喜捨にすこぶる献身的で、自らの手で邸に養育している幾人かの捨て子の身体を洗い、衣服を着せる。家臣たちの改宗についてもきわめて熱心なので、自分の領国で福音を説くイエズス会員の5ないし7名の扶養を申し出ている。そして彼女は司祭たちにいとも順従で、彼らと自らの霊魂のことについて語らった。

彼女の従順さは、司祭たちが彼女に、邸内に、良心的には3人もの重立った婦人を奉仕させるのは良くないことだと述べると、彼女はすぐに彼女たちを解任したほどであった。また万事につけ、その他疑わしいことは尋ね、自らの霊魂のために良いと言われたことをすべて果たした。

そして大いなる尊敬と敬虔さをもって我らと諸事につき伝達し合えることを非常に大切とみなしているので、ただその目的だけで、我らの(ローマ)字の読み書きを学び、ヴィセンテ修道士が彼女に送ったABC(のローマ字アルファベット)と、ただの教材だけで、ついに同祭にも修道士にも逢うことなしに、その(日本人)師匠と同じか、またはそれ以上によく(ローマ字文の)書信を読み書きするに至った。

善意によって救済されるであろうと考え、(司祭の)面前で罪を告白しに行くことができなかったので、自らの罪の赦免を乞いつつ、その告白(内容)を書簡でもって院長師に送付した」。

これが彼女の死の15もしくは20日前に、司祭が彼女についてしたためた書簡である。

この夫人は、その大いなる徳操と役割において日本では非常に名望があった。そして、そのような徳操や役割によって夫は彼女をこよなく愛した。さらに彼女がキリシタンとなった当初は、夫は彼女に罪深い生活をさせていたし、彼女にとっては大いに苦労や苦痛の種であった。

キリストの教義を受け入れたので、それらはすべてに対し大いなる忍耐と慎重さで振舞い、そのことで夫を感動させるようになった。したがって、夫を慰めるのみでなく、今ではもう、夫は彼女がキリシタンであることを非常に喜んで、伏見から大坂の市へ移り、彼女が習わしとしていたように祈祷に専念できるように祈祷室と祭壇の修復を彼自身が行なった。

(細川邸の)火が消えると、オルガンティーノ師は篤信の一人のキリシタン婦人に、他の婦人たちを伴わせて、ガラシア夫人が死んだ場所に、遺体についている何かを探しに行くよう命じた。彼女たちは、すっかり焼けていなかった幾つかの骨を見出し、司祭のところへ持って行った。司祭は他の司祭や修道士たちと、大いなる悲痛と涙の中に彼女の葬儀と埋葬を執行した。

この夫人の死は日本中で大いに悲しまれた。ドナ・ガラシアは皆キリシタンである一人の息子(興秋)と二人の娘(長、多羅)を残した。そして彼女の夫は、なお異教徒であるが、司祭たちやキリシタン宗団ときわめて親しく、我らの諸事に対して多大の熱意と愛を表明している。

拍手[0回]

ブログ全体検索